中編
無表情としかめ面。‐1
───校舎裏にある、誰も寄り付かない林側の古い階段。
静かな時間。雑音や視線のない時間。
そこは俺にとっての休憩所のような場所になっていた。
いつからだっただろう。
たぶん、仕事に疲れて息抜き出来る場所を、無意識に探し歩いていた時に見つけた。誰もいない場所。やつらが来ない場所。
小野宮朔は別人になってしまった、と誰かが言っていた。直接聞いたというよりも、噂のように流れてきたものだったと思う。
自分は別人でないのに。ただ、豊かな感情や表情を、どこかに忘れてしまっただけで、俺は俺でしかないのに、退院して学園に戻って来てから暫くしてそんな噂が出てきたらしい。
別に、違う人間だと思いたいだけなのだと俺は解釈しているから何も感じなかった。
俺はあの頃、どうやって過ごしていたのかを、いつの間にか忘れてしまったように思う。
少なくとも俺を知る生徒たちは、みんな、俺を見たり俺に話しかけるといつも泣きそうな顔をする。というか、退院したすぐあとはよく泣かれた。
小野宮朔の親衛隊、という組織に属していた生徒は、みんな泣いていた。倒れたことに対するものかと思っていたけれど、それだけではないのだと後から知った。
変わり果てた姿。まるで別人。
そう、彼らが思ったり口々に悲しむから、きっと成り代わり説のような話が広がったんだと思う。
それでも、親衛隊として俺を支えてくれた彼らは、今でも表情に哀愁があるものの変わらず一声かけてくれている。
だけどやっぱり、なにも感じない。
ただ、生きているだけの人形のように、表情は、感情は、揺らがなかった。
俺は何のためにここにいるのだろう。
あの頃の生き甲斐みたいなものは、なんだっただろうか。
今の生き甲斐は、なんだろう。
やっぱり、わからなかった。
青空に雲が流れていくのを、階段に腰かけて柵に寄り掛かってただ見つめる。
ぽっかりと空いたような、心の風通しが良すぎて、下らないことしか思い浮かばない───
「───お前、死人みてぇだな」
そう、足元から低く唸るような声が聞こえてきた。
視線をやると、冷めた目をした見覚えのある顔の生徒がいて、他に何を言うでもなく階段を登って俺のいる場所から二、三段上に座って煙草に火を点けた。
紫煙が空に上がって消えていく。魂みたいに。
常に不機嫌そうな表情のそいつは、周りから何かにつけて恐れられ、距離を置かれているやつだ。
けれどそれを気にする素振りもなく、自由気ままに過ごしていると、いつだか耳にした。あれはいつだか、風紀の委員長が溢した愚痴だっただろうか。
名前は確か、槙野 新(まきの あらた)。位置づけは不良だが、槙野は学年成績では常にかなり上を維持していて、授業の出席率も高い。ただ、煙草や酒をのみ、喧嘩もする。それだけ。
人間の優良と不良の違いというのは、よく分からない。真面目と不真面目の違いとはまた異なるのだろうか。それでもやっぱり分からないが、考えたところで正直そんなことはどうでもよかった。
立ち上る煙を見つめ、ふと、久しい感覚を抱いた。
「吸ってみたい」
「…は?」
「それ」
何となく、本当に何となく、槙野が吸う煙草に興味を持った。しばらくなかったものだ。
呆けた顔をした槙野は、変なものでも見るような目をしながらも文句を言うことなく、脇に置いていた箱から一本取ってライターと共に差し出してきた。
けれど俺はそれを無視して、槙野の口に加えられた吸いかけの煙草を取って、焦ったような声を聞き流してそれを銜える。
ストローで空気を吸い込むように、そしてそれを飲むように、体内に入れた。
「───っ、ゲホッ」
「そりゃそうなるわな」
「まずい。苦い。返す」
「…変なやつ」
苦味と喉の痛さに煙草を突き返すと、奴は小さく笑いながら受け取って吸い、煙を吐き出した。
先端が赤く色づき、灰が生まれ、煙りは立ち上りつづける。
俺はそれを、吸うよりも見る方が好きだと思った。
そしてまた気付く。好きと思うのも、久しい感覚だと。
槙野の口元で短くなっていくそれを見つめながら、そんなことを考える。
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