中編
◇しかし壁とはぶち壊すものだ。
想定外の出来事に出くわすというのは、案外冷静でいられるものだと知った。
トイレにある鏡の前で自分とにらめっこをするという、イイ歳した男が痛いことをしているなんて呆れるくらい、ただひたすら睨んでいたが。
溜め息ひとつして、戻ろうとドアを開けた瞬間、重量のある塊が倒れ込んできて咄嗟に謝罪と支えが同時に出てきた。
細身の肩を掴み、様子を伺おうと声をかけて上げられた顔を見た時、一瞬で思考が停止した。
目の前に、最近の悩みの本人がいる。
小さく口を開き、前のめりのままでただ固まっている。
その口が微かに開閉した次に、今度は自分の目が見開かれることになってしまった。
「〜〜っ!」
じわじわと色白な顔が赤くなっていく。
瞳は揺れているのに真っ直ぐこっちを見つめるその目に、今いる場所を忘れるほど、隔離された感覚を抱いた。
気付けば俺は、出ようとしていたトイレへ須藤を引っ張りこんでいた。
───…なにをしているんだ、俺は。
そう思ったのは、彼をトイレに引っ張り込むには収まらずに何故か個室にまで無言で入って、更に鍵を掛けた扉に押し付けて両手を顔の両脇に置いた後という、なんとも言い訳に困る状況の時である。
間近に息遣いを感じ、けれど顔は見えない。俯いているので視界には二人ぶんの足元だけだ。
「……あ、の…」
「……」
ここまで無言だった彼が口を開いたが、俺は応えられなかった。
なんなんだこの状況は。自分で造り上げておいて今更だが、なんなんだこの状況は。
このまま沈黙を守っても時間だけが過ぎるし、佐東も居ない事に気付いて連絡するかもしれない。この後別の同窓会に行かなければならないのだから、当然の行動と言える。
それに彼───須藤だって、長時間あの場に居ないとなれば、親しそうにしていた大友が気に掛けるかもしれない……。
そこでふと、ひとつの疑問が再び浮かび上がってきた。
「……大友と親しいのか?」
「…はい?」
浮かんだ疑問をそのまま問うと、まあ当然のように聞き返された。
須藤からすれば混乱の中で何の説明もなく突然こんなことを聞かれたら、訳が分からないだろう。俺だってそうだ。
ゆっくりと顔を上げると、動揺する瞳がけれども真っ直ぐとこちらを見ている。
「…すまん、ちょっと気になったんだ。これとはたぶん関係ない」
「は、あ……、えと……高校から、親しく…なりました」
滑稽で奇妙な光景だと思う。
まるで俺が、須藤と大友の親しげな雰囲気に嫉妬しているようにも見える。
…いや、
「……ああ、そうか」
「?」
それは須藤の返事に返すような言葉にも受け取れたが、自分の考えに納得した自分への答えだった。
そしてそれは、抑え込んでいたナニかを自由にするだけの力を持っていた。
「あの、倉科さ…」
「嫉妬したんだ」
「───は?」
彼の呆気に取られた顔はなんというか───…じわじわと、燻っていた内側に火がはっきりと見える。
食らってしまいたいと思えるほど、今まで抱いたことのない気持ちが沸き上がってきて、揺れる瞳を見つめたまま、体が更に密着していく感覚を抱いた。
───ヴー、ヴー、ヴー、
「……」
「……」
互いの顔に息が掛かる距離で、着信を知らせるバイブレーションが無慈悲にも響いた。
「……はぁ…、変なことして悪かった」
「……い、え…」
彼と距離を取ると、何かしてやりたい衝動を無理矢理抑え、震える携帯を手に固まる彼を支えながらドアを開く。
「…じゃ、また後日」
「……」
自分でも意味が分からない。
ただ最後に、頭を撫でて頬を撫で、呆然とする彼を目に焼き付けて、トイレから出た。
着信は言わずもがな、佐東である。
あいつに会ったらとりあえず蹴る。
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