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中編
◆この想いを忘れてしまえるならば。
 

 佐久間課長はとても穏やかな人だ。
 失敗を怒鳴る事も蔑む事もなく、柔らかな笑みを浮かべながらもしっかりと注意をするような。
 けれど時折その笑顔がとても黒々として見えるのは、佐久間課長の強い意思と、それに少々他人を引っ張り込む所があるからだろう。
 その強引さに嫌みがなく、甚だあっさりとして裏がないせいで(当人の人当たりもあるが)、不快な思いを抱けないという厄介な質もあるのだけれど。



 だから、今この場に居る事の何とも言えない気まずさというのは、どこに当たることも出来ない為の消化不良なのだろう。




「そんな戸惑う事はないですよ、これから長い付き合い、何かあった時の為に連絡先をお互い知っていた方が、私も安心出来ますから」



 ね、と変わらない笑みを浮かべる佐久間課長だが、残念ながら今の俺にはその笑顔がとても穏やかに思えない。


 それもそうだろう。
 佐久間課長自身の言葉ではあるけれど、この場に居る四人の連絡先をそれぞれ知っていた方が良いと、思い出したように突然言い出したのだ。
 今なら向かい側に座り何も言えずにいる二人に同調すら出来る。



 ちょっと天然な気があるな、とは常々感じてはいたが、まさかここでそれを発揮するとは。
 この場の戸惑う空気を知らずなのか、はたまた敢えて読まないのかは分からないけれど、佐久間課長は嬉々として自らの携帯を取り出してにこやかだ。



 ここは何とか流すしかない。
 一応期待されてこの場に付き添いとして行動させてもらっている以上は、この一ヶ所だけ花が咲いている異様な状況を変えるなりしなければならない。



 気付かれないように溜め息を吐き、スラックスのポケットに入れていた携帯を出しテーブルに置いた。
 その行動にさらに驚く二人に笑みを浮かべて見せ、口を開く。



「倉科課長、佐東さん、本当に突然で申し訳ありません。ただ佐久間課長の仰るように、合同企画の件ではその場ですぐ課長へ連絡が取れない場合もあるでしょうから。不都合がなければ、登録だけでも」



 とにかくこの場を何とか納めたくて、ゆっくりと押し付けないように話す。




「プライベートの連絡だっていいですし。飲みに行ったりしたいと私は思ってますよ?」
「佐久間課長、まずはお返事を伺ってからにしましょう」



 ちょっと黙ってくれという言葉を暗に滲ませつつ笑みを向けると、ごめんごめん、と軽く謝罪を受ける。
 申し訳なく思いつつ、向かい側の彼らに目を向けると、彼らは焦ったように自らの携帯をそれぞれ取り出した。



「すみません、ちょっと驚いてしまいまして。まったく問題ありません」



 そう言って倉科課長は苦笑を浮かべ、是非飲みにも、と佐久間課長の言葉を受け入れてくれた。


 斯くして思いがけない場面で過去の想い人の連絡先が登録された携帯は、しかしこちらからも相手からも仕事以外で連絡などないだろうと思う。
 それに、なにかあった時、というのも、佐久間課長へ直接急ぎの連絡がつかない、という事もほぼ無いと言って良いだろうから、この携帯が彼らからの連絡を着信する事はないだろうな、とも。



 しかしそんな現実的な考えと捨てきれない微かな期待などが綯い交ぜになって、俺は暫くの間、スラックスのポケットに戻った携帯に意識が持っていかれてしまったけれど。




 もし、この不安定な過去の残り火を完全に消してしまえたなら、こんな複雑な思いなど抱かずに済んだのだろうか。



 

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