中編
◆思い出に振り回されたくはないのです。
定時で仕事は終了し社員が帰っていく中、デスクの上で資料を束ねる。
帰り際社員達からは、お疲れさま、まだ仕事か、と労いの言葉をいただき笑いかけながらもその背を見送った。
午後6時にはT社との合同会議と会食を同時に、と先日佐久間課長から伝えられている。
鞄に資料をしまい、必要なものを忘れていないか確かめて席を立つ。
先週から今日まで、彼の事を考えない事はなかった。
仕事中はないが、帰ってから寝るまで、特に布団に入ってからが酷かったように思う。
思い出すことがあまりなかった今までは、眠りに入るまでがこんなに大変だとは思わなかったし、中学時代の様々な光景が鮮明に流れてきて、寝るに寝れず。
それでも何とか失敗もなく、仕事は順調に進められていたし、問題ない。
予定時間の十五分前、佐久間課長と共に訪れたのは、個室のみのこじんまりとした洋食店。
予約制で大通りから外れた場所にあるそこは、佐久間課長曰く知る人ぞ知る店のようだ。
どうやらそこのオーナーが知り合いらしく、ちょうど良い場所があるからと紹介がてら選んだのだそう。
雰囲気は落ち着いていてシックな佇まいに、ほんのりと控えめなライトで照らされた個室は、なかなか普段は利用しないような店である。
「良いお店ですね」
「だろ、あいつこういう趣味だけは良いからな」
店内に入りそう言うと、かなり親しい間柄なのか、佐久間課長は感心半分呆れ半分のような表情で言った。
直後、店の奥から低く若干掠れたような声が聞こえてくる。
「趣味だけってなぁ聞き捨てならないな、洋介」
「なんだ雅人、盗み聞きか?事実だろ」
料理人な服装ではなく、細身の黒いパンツに白シャツ、腰エプロンで現れた彼は、髪が長いのか後ろで無造作に纏めていてとても端正な顔をしていた。
切れ長の目は鋭いようで、実際目が合うと暖かく柔らかな印象を抱く。
雅人、と呼ばれた彼はにこりと微笑むと、はじめまして、と優しく声をかけてくれた。
慌てて背を正し、頭を下げる。
「はじめまして、申し遅れました、須藤正樹と申します。今日はお世話になります」
「日野雅人です、よろしく。須藤君、洋介が引っ張り回して大変でしょ」
「いえ、とんでもない。佐久間課長には常々お世話になっております」
「いい部下持ったなお前」
「うるさいよ」
焦ってうまく言えなかったが、日野さんは気さくに話を振ってくれ、安心して息を吐き出した。
「そろそろ相手側が見えるかな、席に案内するよ」
「頼む」
「よろしくお願いします」
日野さんに促され、店の一番奥の個室へと案内されるように歩き出した時。
「佐久間さん、」
ちょうど真後ろから、昔の記憶よりも低くなった声が聞こえてきた。
「おや、お早いですね、私どもも今しがた来たところです」
「お待たせしてはと思いまして。ちょうど良かったですね」
振り向いた先、すぐ側にその体があったせいで無意識の内に肩が上がってしまい、慌てて頭を下げた。
彼と目が合うと何故か酷く優しげな眼差しを向けられ、そして微笑まれ。
その表情に、雰囲気に、声が出なかった。
「こちらオーナーの───」
佐久間課長と倉科課長、佐東さんが会話する中で、俺はひとり、まるで空間を遮断されているような錯覚に陥った。
あの眼差しも微笑みも、須藤正樹という俺ではない誰かと勘違いしている彼が向けたものだと思っているせいなのか、そもそも俺が意識し過ぎているせいなのか、上手く被りきれずにずれてしまった仕事の仮面の端から、素肌を晒している気がした。
十年前の想いなどに、振り回されているのかと。
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