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白鎮魂歌(完結)
終る聲



 ふわふわと、無重力の中に浮いている様な気分だった。左右も、上下すらも分からない、真っ白い空間にただ佇んでいる気がした。
 視界の端まで、見えなくなる極限まで白い世界だ。しんと静まり返っていて、まるで先程の爆音の中にまだ居るのではないかと言う気にさえなってくる。あまりの静けさに、口を開く勇気など奮い立たなかった。
 ぺたり、と、一歩踏み出す。実際には音が鳴ったかなどとは分からなかったが、そんな感覚がした。柔らかい毛を踏んで居るような感触。そこが地面かと思い真横に手を伸ばしてみると、腕を少し曲げた所で不自然な壁が出来上がった。何かは分からない。それはただ、狛の先を行く足をとどめようと立ちはだかっている様にも思える。
 不意に、風船の様な丸いものが向こうからやって来た。それは手元に届くまでに近付いてくる。やがて眼前に迫った風船はそこで緩く上下運動を繰り返し始めた。不思議に思って指を近付けると、儚くも一瞬で割れてしまった。
「――!?」
 そして頭に直接浮かぶ映像。
 まるで、水車の枠組みを違えて逆さに回り出した様な風景が頭の中に浮かんでくる。
 まるで、大きな河の中に佇んでいながら全身に水流を受けている様だった。意識も、身体も、全てがさらわれそうになる。息は苦しくなかった。幾つもの気泡に身体が包まれて、全身が泡になって消えてしまう感覚に陥る。
 鈍器で殴られた様な衝撃の直後、世界は一転した――



「母さん」
 声がする。
 高い声だった。
 それは自らの喉から発せられた声では無い。目の前に正座する少年のものだった。何処から現われたのか、長い髪を後ろで一本に結い上げ黒い着物を纏っている少年は、畳の上に敷かれた布団の脇に座っていた。年端もいかない見掛けだが、その顔には様々な感情が入り組んでいる様に見えた。
「体調、どう?」
 そう尋ねる少年は、手にした盆を前に押しやる。その上には桃が乗っていた。たった一つであったが、丸々と太った美味しそうな桃だ。
 そして、布団から白い腕が伸びた。大きさからはそれが女のものだとよく分かる。病的に白くやせ細った手が、空をかいた。それに応える様に少年は頬を寄せ、節張ったその小さな指に撫でられて、嬉しそうに笑った。
「そう。良かった」
 そう呟く少年の瞳は、しかし哀しみに満ちていた。外から差し込む夕日が今は夕方だと知らせていたが、その橙の灯がより一層哀愁の色を濃くさせる。
 灯は、部屋の隅までに届いていなかった。
 それを確認すると同時に、部屋を見回す。
 少年と、少年の母親らしき人物がいるこの場所は、見たことのない風景だった。
 何処かの家の様だが、異様な光景に首を傾げる。箪笥も無ければ、囲炉裏もない。食べ物の匂いすらしない。あると言えば桃があるが、それは今取って来たものの様に瑞々しいのだ。あまりにも生活感がない。まるで生きているものが住んでいない様な、そんな気にさせる。
 途端、布団に埋もれた女の顔を見たくなったが、意思と反して足は一歩も動かなかった。部屋の、灯の当たらない隅に止どまったまま。
 そうして、いつまでもその物悲しい雰囲気が続くと思っていた。何も動き出せぬまま、ずっと―――
 しかし、流れは突然に変わるものだ。
 空を裂く様な音がした瞬間、目の前の少年が素早く身を翻した。少年の身体にはそぐわない反射神経で、布団の側に擦り寄る。その顔には、険しい表情が刻まれていた。
「此処だと言ったな!?」
 そして先程まで穏やかに橙の灯が漏れていた襖から、何のためらいもなく荒々しい様子で数人の男たちが現われた。それぞれが手に鍬や鎌を持ち、怒りにも似た焦りを纏っている。
「何処だ!何処にいる!?」
「布団しかないぞ。めくってみろ!」
「お前、嘘を吐いたんじゃないだろうな?」
「め、滅相もない…!」
「取り敢えず、旦那、頼みますぜ」
 男が一人、前に進み出た。
「任せなさい。この様な陰湿な場所…人の気配がしない場所で布団が敷かれているなど、奇妙です。もののけの類かも知れませんので…しばしお待ちを」
 その男の静かな物言いに、首を捻りたくなった。
 しかし男共は、何にも気付かずに室内へと入り込む。誰の足かも分からないものに盆がひっくり返された。少年が悲しげに声を上げた頃には、汚い足で桃が潰された。
「ッ―――止めてよ!そこには母さんがっ…ねえ、おじさんたち!ぼくの声を聞いて!ねえってば!」
 しかし男共は気が付かない。口々に何かを罵りながら、布団を跨ぎ、踏み付ける。その間、何度も少年の叫び声が上がった。先程の男が何かを詠み上げる。敷き布団が初めて動いた気がした。少年が男にすがりつく。何かを叫んでいる。しかし、全てが不明瞭になった。泡にのまれ、消えて行く。
 全てが消え去ってしまう前に、男と女の声の入り交じった悲鳴が聞こえた気がした。



「…、…」
 頬が濡れていた。
 泡にのまれたからではない。
 あれは全て幻覚だったのだと、何となくそう理解した。
 頬を濡らすのは、自らの目から流れ落ちる涙だ。何が悲しいのかなど知る由も無い。
 ただ、そう。
 何となく理解したのだ。
 全ては、晴珠の記憶だったのだと。
「っは…、ぅ…」
 耳元に掠れた声が届いて初めて、肩にかかる重みに気付く。
「ぁ、…」
 一番に目に入ったのは、青い髪だった。晴珠だ。膝を付いた狛に、晴珠が全身を凭れさせる形になっている。横では頽れたままの朱援が目を見開いている。
 どうしてその様なことになったかなど分からずにうろたえるしか出来なかったが、不意に、晴珠が口を開いた。
「ふ、ふふ…。さすが、狛、くん…ですね…」
 掠れた声は、かなり苦しそうだ。
「っ…」
「晴珠…!?」
 そして何かに耐える様に眉をしかめた晴珠の肩を支えてやろうとした瞬間、狛は右手に違和感を覚えた。支えようとした手が空を切る。掴む場所がない。
 無いのだ。
 晴珠の左腕が。
「せ、い…?」
 傷口から血が出ている様子は無かった。信じられずにじっと見つめてみると、そこは黒ずみ、炭化している様だ。
 晴珠は、狛に傷口に触れられ更に疲労の色を濃くする。
「きみの、力ですよ…っ」
「……」
 それでも、晴珠は笑っていた。
「………うなよ…」
「…?」
「悲しいのに、笑うなよ…」
「……、私が?」
「……」
「……そう、ですか…。知って、しまったんですね…」
「……」
 ずるり、と、晴珠の頭が下がる。咳き込むと同時に、反動のせいで痛んだせいか小さく呻いた。
 晴珠が言う『知ってしまった』ことが何かなど、今更問うことはしない。きっと『あれ』は、無意識の内に狛が使った蘭角の力のせいで見た、晴珠の記憶なのだ。
 晴珠が朱援に飛び掛かった時、狛は蘭角の力を使った。きっと全てを制御仕切れていた訳ではないだろうが、晴珠の腕を飛ばすには十分だった。しかし、晴珠程のてだれならば、狛の攻撃など簡単に回避出来た筈なのだ。
 なのに、どうして避けなかったのか。
 その理由を、あの時晴珠が呟いた言葉から見出して、狛は唇を噛む。
「私は、…母の身体が弱いことが疎ましかった」
「……」
 嘘だと言いたかったが、それは狛の口をついて出なかった。
 狛も同じだった。
 嫌いではないことを、何かへの反抗心で疎ましいと思ったことがあった。
 しかし本当は違ったのだ。
 嫌だと思ったことは無かった。
 父親がいないことも。
 幼い頃に死んでしまったことも。
 それが全て計算し、操られていたことだと分かったとしても。
 否。
 これは全て、この結末に至るための必然だったのではないかとすら思う。
 哀しい、運命の歯車に踊らされた哀しい生き物の命。
 彼に対する怒りなど芽生えなかった。
「私、だけが…」
 耳元で、苦しげな吐息が起こる。
「私だけが哀しいふりなんて出来ない…もっともっと辛い目に会っている殻蟲は沢山いる」
 絞り出す様な笑い声は、いつしか喉の震えに変わっていた。
 狛は、晴珠を抱き締めた。
 炭化した腕のあった場所も、包み切れないその全身も含めて。
 抱き締めた。
「馬鹿な童…」
 くすくすと、笑った呼気が首元に触れる。そこが熱さを持った。
「全ては私が仕組んだこと…。きみを殻蟲に襲わせたのも、蘭角を狂わせたのも…」
 残った手で、晴珠は一度だけ狛の頬に触れた。自らが母にされた様に、狛にも同じ様に触れる。
「きみは、誰も救えない」
「……」
「ほ、ら…誰も、救えない…」
 蒼が朱に染まった。
 全てを焼尽くす炎は、一瞬で晴珠を飲み込んでいく。叫ぶことも無ければ、啼くことも無かった。
 やがて、晴珠の身体は光となって霧散する。
「………」
 炎で、浄化した。
 焼け跡など残らないように。
 灰すら残らないように。
 その時、自らも巻き込まれて死んでしまえればどれだけ楽かとも思った。
 晴珠を殺して敵を討っても、歓喜など起きない。心は奮えない。
 狛は、焼け死ぬことは出来なかった。
 ただ、そこには悲しみだけが残っている。
「俺…、人を、殺したっ…」
 俯いたまま呟く狛に、いつの間にか近寄っていた朱援が首を振る。
「お前は殺していない」
「でもっ…」
「お前は、悪しきものを祓った…殻蟲を退治したんだ」
「でも、俺は…」
「蘭角から受け取った力でお前は、殻蟲を、人を、世を、焼き尽くすことが出来る」
 蘭角は、そんな力を与えて何をさせたかったのだろうかと思った。
 狛に晴珠を殺させたかったのか。
 狛に咎を背負わせたかったのか。
 否、違う、彼は。
 晴珠を救ってやりたかったのだ。
 しかし、いくら跡形も遺さずに焼き付くそうとも、手の中に残る温かさは確かに彼らがあった証なのだ。
「俺は、こんな力…要らない…」
 未だ手のひらに残る晴珠の形を潰す様に、狛は拳を作る。俯いて、目を瞑った。
 しかし、朱援は言うのだ。
「妾には、必要だ」
「?」
「さあ、狛。…今度は妾を滅してくれ…?」
 そう言った彼女は、桜色の唇を緩く弧にして笑っていた。




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