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白鎮魂歌(完結)
流す雫



 信じられない言葉に、全身に電撃を食らった様だった。一つ一つの言葉を咀嚼し、胃の中に落とし入れる。暫くの間は黙ったままだった狛は、必死な表情で首を振った。
「ぃ、…嫌だ!」
「お前にはまだ、退治しなければならない殻蟲がいる」
「そんな奴いない!」
「いるのだ!!」
「ッ―――」
 朱援が叫び、狛が黙る。
 朱援が叫ぶなど、これまでに何度あっただろうか。激昂でもなく、慟哭でもなく、荒立った心の波を表すただの叫びだ。
 しんと静まったせいで、今更、雨が降っていたことに気付く。晴珠が消える前から降り続いている雨の強さは、ずっと同じままだ。しかし今となっては、無慈悲にも身体に叩き付ける雨は、全身を打ちのめす鉛の様に重い。
 俯くと、雨粒が頬を伝って流れた。どうしたら良いのかも分からずに、髪を乱暴にかきむしる。
「…朱援だって、…つらい思いをしたんだろう?晴珠に振り回されて…」
「晴珠のせいではない。妾が弱かったのだ」
「晴珠が原因を作ったんだっ…」
「ならば晴珠が憎いか?」
「っ、分からないよ、そんなの…」
 朱援の言葉に、狛は力無く首を振った。あまりに弱々しいせいで、それが肯定なのか否定なのかははっきりとしなかったが。それは狛の心をありのままに表していたのかも知れない。
 そして、感情の波にのまれまいと必死になる狛へ、朱援は更なる追い討ちをかけた。低く落ち着いた声は、狛を思考の奥へと引き込んでしまう。
「ならばお前は怒りを何処へ向ければ良い?悲しみを何処へ返せば良い?」
「でも、…でもっ、朱援だって、悲しい思いを」
「妾には、憂いなど似合わんよ。妾には、泣く資格などない」
「朱、援…」
 諦めた声音のあまりにも悲しい響きに、狛は余計な言葉を紡げなくなった。もっと誤魔化すべきなのに、何の茶化し言葉も思い当たらない。
 今更何だと言うのだ。
 憎むべき相手も見当たらずに、遥か昔に納得した出来事に対して今更、真実を告げられて。ぐちゃぐちゃになった頭では明確に判断など出来ない。
 分からないのだ。
 誰を憎めば良いのか。
 誰に怒れば良いのか。
 それは、答えなど当に分かっている簡単な命題なのだ。しかし、その後ろには幾つもの因果が重なっていて、ただ一つの答えとして回答してしまうのはあまりに虚しい。
 理由がありすぎた。
 そこまでに行き着く理由も。
 答えの出せない理由も。
 それなのに彼女は憎めと言うのか。狛が初めて感情を抱いた女を。
「頼むから、妾のことも、晴珠と同じ様に解放してくれ」
「そんなこと、出来ないよ…」
「狛」
「第一、そんな理由がないっ」
「……。妾の口から聞かねばならぬのかえ?聞けばお前は納得するかえ?」
 じゃり、と、下駄が砂をなじる。
 聞きたくなど無かった。
 知らされてはいたことだが、彼女の口から直接など、考えてもみなかった。
 しかし、朱援は言った。
 耳を塞ごうとした狛の手を優しく制して、その顔を覗き込んで、瞳をまっすぐに見つめて。
 まるで裏切りの言葉だ。
「お前の父上殿を殺したのは妾だよ。妾は、お前の父を手にかけた」
「っ―――」
「悔しいかえ?憎いかえ?」
 どんなことを朱援が言っているのか、いくら頭で理解しようとも納得は出来なかった。しかし、何度も何度もそうやって他人に囁かれる内に、訳が分からなくなってしまう。やるせない気持ちに、自暴自棄になる。まるで催眠術に掛けられた様に、ふつふつと嫌な感情が涌いてくるのだ。
 ふ、と、朱援が笑みを作った。
 それは儚い、あまりにも儚い、今にも崩れてしまいそうな弱々しい笑顔。
「殺しても良いのだぞ、狛…」
「っぁあ―――!!」
 視界の端でぶれた朱援の笑顔。
 人の心を操るのは、ただある人の特殊な力だけでは無かったのだ。全ては、言霊の中にある。人を行動させるのも、停止させるのも、祝福するのも、呪うのも。
 朱援の手を振り払いながら、狛は思った。
 手に炎を纏う。
 それは橙。
 それは紅蓮。
 それは緋。
 視界が、赤く染まった。
 反動に供えて身構える。
 光景に供えて目を瞑る。
 しん、とした沈黙が張り詰める。
 雨音だけが耳に届く。
 前など見れなかった。
 また、晴珠の左腕の様に炭化したその姿があるのだろうか。
 恐怖にのまれる。
 今更、後悔する。
 しかし不意に、伸ばした腕に温かいものが触れた。
「そんな力で、妾を滅せると思っているのかえ?」
「え、っ――!?」
 そしてそんな声が聞こえたことに瞼を開ければ、右頬に衝撃を感じ転んだ。口の中には血と砂が入り交じり、噛むと嫌な感触がする。気付かぬ間に反転した世界では、真正面から雨粒が落ちていた。
 何故。
 何故、朱援は素直に食らわない。
 脳がぐらぐらと揺れる。
 軋む身を起こせば、裾や腕に泥が付く。張り付いた着物が邪魔になった。
 朱援は倒れたままの狛を追い込むことはせず、同じ位置に立ったまま言葉を紡ぐ。
「狛、良いことを教えておいてやろう」
「…?」
「郭蟲は、自らを超える力に滅されるか、自らの憑く殻を壊されぬ限り生き続ける」
「なっ…」
 いくら実力の差があるとしても、何故自らの致命傷にもなりうる弱点を晒すのかと、狛は驚いた。視線を彷徨わせ、不意に気付く。
 死にたいと良いながら、完全に戦う意志を捨てた訳ではない朱援の意図が分かった。
 朱援は完全な消滅を望んでいる。
 朱援が無防備な状態で狛と戦ったとしても、狛は肝心なところで躊躇すると考えたのだろう。そんな攻撃では怪我をしたとしても、とどめを刺すには至らない傷しか負えない。そう思った朱援は、狛の意識を戦いへと導くことによって朱援の死から遠ざけようとしているのだろう。まるで、朱援を庇って晴珠を滅した時を再現するかの様に。痛みと焦りで頭を一杯にする。
 そしてそれがもし叶わなかった場合には――
「妾を殺したいのなら、狛…この樹を―――」
「こんなところにいたのか」
 しかし、全てを言い終える前に、第三者の声が割り込んだ。
 それは聞き慣れた声であった。
 その中には不穏な響きが含まれていて、違和感を感じることを禁じ得なかったが。
 雨が降っているせいで視界の悪い境内を見回すと、そこには今、雑木林から抜けてきたのであろう童が一人立っていた。羽織りもせずに、雨に打たれるがままになっている影が一つ増える。
「鼎…!」
 牢から抜け出して来たことに気付き追いかけて来たのかと、驚いて身を固めた狛だったが、
「やはり、お前か…」
 朱援の視線は鋭く鼎を刺していることに気付いて力を抜いた。ペタペタと草履を慣らしながらゆっくりと歩く鼎は、何も気にしていない様だ。
「朱援…?」
 どうしてそれほどに険しい顔をする必要があるのかと思い朱援を振り返ったが、朱援は更に眉間に皺を刻んでいた。その目は、狛の後方に向けられている。
 振り返ると、いつの間にか神木へと寄った鼎が、木の皮に手を当て、こちらを見て笑んでいた。
「どうしたんだよ、狛?」
「……」
 やはり、微かな違和感を感じる。
 しかしその原因が何かと問われれば明確に提示出来るとは思わない。それほど微かな、本当に細かな違いだ。
 そしてその謎は、警戒心を露にした朱援の言葉によって解明される。
「あの時、お前は妾と目があっただろう?」
 狛は一瞬、理解が出来なかった。
 誰に話しかけている。
 あの時とはいつだ。
 お前とは鼎のことか。
 記憶を掘り起こす。
 朱援が鼎と居合わせた時などあっただろうか。
「…、…」
 あったではないか。
 ずっと昔。
 二人で神木の上を見上げた。
 一人が言うには、そこには女がいた。
 一人が言うには、そこには女ではなく下駄が引っ掛かっていた。
 本当に、そうだったのだろうか。
 狛は不意に、そんな考えに陥る。
 すなわち、あの時とは狛が初めて朱援と出会った時のことだ。その時狛は一人の相手としか対面していなかったが、彼女は二人の見える人間と会っていたのだ。
 そう解釈すれば全てのつじつまが合う気がした。
 疑うことを躊躇しながらも鼎へ視線をやる。鼎は、静かに笑っていた。どくり、と心臓が脈打つ。
「鼎っ…、お前、殻蟲が見えるのか…?」
 そしてそうやって問えば、鼎はゆっくりと頷いた。
「…そうだよ。俺は、化け物が見える」
 雨音しかしない境内では、静かに呟かれた鼎の声ですら反響する。後ろでは、小さい筈の朱援の吐息ですら明確に聞こえた。
「随分と見えないふりが上手いな。慣れているのかえ?」
「ああ…。ずっと俺は、見えない側の人間として生きて来たんだからな」
 その時、違和感の正体に不意に気が付いた。
 鼎は狛を見ていたのではない。狛を挟んだ向こうにいる朱援を見ていたのだ。口許では笑みを形作りながら、目では悪意を持って睨んでいた。
 そして、相変わらず二人は睨み合う。
「どうして、そんな必要が…」
「どうしてだと思う?」
「…っ…」
 言葉に詰まる。
「今なら最高に気分が良いからさ、何だって答えてやるよ?」
る。
「だが丁度良い…一つ気になっていたことがあったのだ」
 その声は挑戦的で、瞳はある確信に満ちていた。




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