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白鎮魂歌(完結)
逆の故



 その姿はまるで古くから語り継がれている悪鬼の様で、背筋を悪寒が駈け登って行った。振り乱した髪から垣間見得る怪しく光る金色の瞳。それはまるで、何かを映している様で何も映して等いない硝子玉だ。
「大丈夫か、狛!」
「っ…!」
 不意にそう朱援に呼び掛けられ、狛は我に返った。震えていた腕を無意識に掴んでいた様だ。あまりに力のこもり過ぎた手は白くなり、爪が立った部分からは薄く血が滲んでいる。
 温かい身体に抱き締められ確かな生命の温度を感じ、狛は溜息にも似た吐息と混じらせながら言葉を紡いだ。
「ら、…蘭角と、…陽桜がっ…」
「どうした」
 この異様な光景にただならぬ影を感じているのか、朱援の声は固い。頭の痛くなる様な現実を言葉にしようとするせいで襲い来る酷い倦怠感が身体中を重くした。唇ですら動かすことが億劫に感じる。それでも再び震える唇で必死に言葉を紡ごうとした時、不意にそれを遮る声が響いた。
「陽桜は私が殺しました」
「―――ッ」
 狛は、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。固く目を瞑れば、頭上で朱援が小さく息を飲んだ音がした。
「そして、蘭角は狛くんが殺した」
「―――っ、違う!」
「違いません」
 朱援の腕の中で叫べども、晴珠の嘲笑う様な声は掻き消えない。くつくつと腹の底から嫌悪の念を滲ませた低い笑い声がする。
「きみの身体から流れる蘭角の魂…きみはそれを喰らって生きている」
「違、う…、違うっ、違う違う違う!!」
「何も違いませんよ」
「―――ッ!!」
 柔らかい調子で責める声がした途端、思考の末端が千切れた様な感覚に陥った。ぶつりと音がして、自らで考えることが出来なくなる。叫び疲れたのだろうか。ぼんやりとした意識で、狛はそんなことを思った。
 耳の奥で不思議な音が聞こえるのだ。じんじんと痛む。熱さにも似た痛みだった。
「…あ」
 不意に、涙が溢れる。
 どうして、こんな自分が生きているのだろうか。
「ぁ、あ…ああぁあ―――っ!!!」
「―――止めろ、狛!」
 何かが激しい情動に揺さぶられた。脈打つ血管が憎かった。鼓動する心臓が煩わしかった。喚く声が五月蠅かった。
 爆発する様な嫌悪感に胸が騒ぐ。だから思い切り胸を叩いた。心臓を叩き潰してしまうくらいに。潰れてしまっても構わないと思った気がした。
「あ、あああっ、あ!」
 何か分からない感情に掻き立てられて、このまま暴れ散らしてしまいたくなる。朱援の腕を押し退けて、晴珠を突き飛ばして、全てを破壊して――人間の力を陵駕する朱援に抱き留められて解放されることは無かったが、晴珠の言った通りに蘭角の力が息づいている狛の体力はいつも以上に向上していた。もがけば、朱援が戸惑った様に更に強い力で狛を押さえ付ける。
 無性に死にたくなった。
 無性に殺したくなった。
 誰にだろうか。
 誰をだろうか。
 金色が恐ろしい程に脳裏に焼き付いて離れない。不透明な声が脳内に響く。手が震えた。
「っ、…全て、お前が仕組んだことなのかえ…っ?」
 朱援は未だ壊れた様に泣きながらもがき続ける狛を強く抱き締め聞いた。勿論、晴珠へ向けてだ。そして晴珠からは、嫌に明るい返答が返ってくる。
「ええ。蘭角が人間に捕まる様に仕向けたのも私です」
「何故だと、問うことはしない…」
 今更隠すこともないことは分かったが、あまりにも素直に事の次第を明かす晴珠に警戒心と不安を抱かずにはいられない。
「…しかし、どうやって蘭角に人を殺させた」
「おや。蘭角だって、人間を恨んだりはするでしょう」
「蘭角は哀しみを知っている。そんな馬鹿なことはしない」
「私は馬鹿だと?」
「ああ。大馬鹿だな」
「…ふふっ…」
 嫌味とも軽蔑とも取れる朱援の言葉に、晴珠は小さく肩を揺らして答えただけだった。青い髪がその反動でなびく。その向こうに見える一面の曇り空は、何をも照らさない。
 肩を竦め悪戯に蔑んだ様な表情を作る晴珠の冷ややかな視線に、朱援は無言で応える。震える狛一人を残した、嫌な沈黙だった。
 そして複数の鳥が飛び立つのを合図にしてか、晴珠が言葉を続けた。
「忘れていましたか?いや、言って無かったんでしょうか…?私は、他人を操ることが出来るんですよ」
「何…?」
「操る、と言っても、少々心をいじくるしか出来ないんですけれどね。歯車をずらしてやれば、簡単に誤作動を起こす者もいて…見ていると大変に愉快です」
「…!」
 その言葉に、朱援は腕の中で震える狛に視線をやった。耳を押さえ付けて、まるで何かに怯えている様だ。その様子を見て、朱援の顔色がさっと悪くなる。操るなど、晴珠の口からは一度も聞いていなかった。
「お前は、…自分が何をやっているか分かっているのか?」
「ええ、分かっていますよ。十分にね」
 悪びれた様子もなく晴珠が頷いたその時、「ッ、―――!」
「…、狛?」
 不意に狛の様子が一転した。未だ視界はぼんやりしたままだが、今まで耳を塞いでいた手を離している。わななく唇から小さく、ぽつりと言葉を漏らした。
「今の、声…」
「声?」
 それが指す意味が分からずに朱援が首を捻れば、狛は正気を取り戻した顔つきで晴珠を見つめている。浮かんだ汗の粒は拭わずに、ただ、今の言葉への答えを待つために。そして、晴珠もそれに応えるのだ。
「死んで行った殻蟲たちの慟哭ですよ…恨みやつらみのね」
「……」
「苦しかったでしょう?死んでしまいたかったでしょう?今までね、そうやって生きてきたんですよ、…皆」
 自嘲気味に呟かれる声音は酷く無感情で、逆に悲しみや憤りが溢れている様に感じてしまう。それが不憫に思えて、狛は俯いた。
「…晴珠は、人間と殻蟲は、一生分かり合わなくて良いって言ったよな…」
「ええ」
「どうして、殻蟲は人を憎むんだ…?」
「それは逆でしょう」
「逆…?」
「忌み嫌うのは、あなた方でしょう?」
「そんなことは…!」
「あるんですよ」
「…、…」
 有無を言わせない晴珠の声に遮られて、狛は口を噤むしか無かった。何処まで行っても抜け出せない迷路に迷い込んだ焦燥と、力無い己への苛立ちが募り、目の奥が熱くなる。ただ朱援が共にいると言うことだけが、狛の涙を止める唯一の砦の様な気がした。
 俯く狛を、朱援は黙ったまま抱き締める。
 そしてそれを、晴珠は感情の消えた表情で見つめる。
「ここで喩え話でもしましょうか。……殻蟲には、よく皮肉って使う者も多い喩え話です」
「晴、珠…?」
 戸惑った声を上げる狛に、しかし晴珠は気付かず話し出した。まるで昔話を語る様に、一つの詩を詠う様に。
「ある所に一匹の殻蟲がいました。それはそれは温厚な奴で、人に危害を加えた事なんて生まれてこのかた一度もなかったんです。それをね?その殻蟲の宿っている樹を、人間が邪魔だからって壊しちゃったんですよ」
「晴珠…?」
 狛の制止にも似た声など聞こえていないのか、晴珠は目を瞑ったまま話し続ける。何でも無い風を装った、酷く傷付いた声音だけが耳に届く。
「自分の命とも言える樹を切り倒されて、殻蟲は死に物狂いで抵抗しました。そして、それを切り倒した人間を…」
「何を言っ――」
「殺したんですよ」
「…っ!」
 それはあまりに簡潔とした説明で、狛は絶句してしまった。本当はとても酷く哀しい話なのかも知れない。しかし、晴珠の冷めた語り口では何の思いもわかない。むしろ、巨大な嫌悪を感じて、憐れみの前に恐れすら抱いてしまう。
「自らの宿りを壊されては、殻蟲は生きては行けない…。殺されかけたんです。立派な正当防衛でしょう?喧嘩両成敗。それで済むはずでした」
「それはっ…」
「だけど人間はどうです。私たちを化け物扱いし、『駆除』しだした。まるで虫けらの様に」
「そんな…」
「それですよ」
「…?」
「その目。私たちを蔑んだ憐れむ様な目…、それが私は大嫌いでした」
「っ…!!」
「その目は、私たちを哀しんではいない。自らの――人間の立場の弱さを案じているだけの目なんですよ」
「そんなこと――」
「ない、と…また言うのですか?飽きませんね…」
「っ…」
 狛が言い返せずに黙ってしまうと、交替だと言わんばかりに次は朱援が口を開いた。
「妾は、その様な話は一度も聞いたことがないが…それはどういうことかえ?」
「…」
 無言で返答が返ってくるのを待つが、晴珠は一向に口を開かない。ただ、じっと朱援を見つめているだけだ。そしてやっと口を開けば、それは狛へ向けられたものへと変わっている。
「君という存在ですら私には疎ましかった。異分子…、ああ、君は生まれた時から要らない存在でしたね」
「え、…?」
「晴珠!!」
 途端、狛にとって理解しがたい言葉を吐いた晴珠の二の句を、朱援の怒号が遮った。それは、無視をされたからではない。狛から見れば、その次に繋がる言葉を恐れている様に見える。
「ふふ、怖い怖い」
 くつくつと笑う晴珠の様子は口にした言葉からは遠くかけ離れている。案の定、何処か外れた調子の声が後に続いた。
「でもね、朱援…。隠していて良いことと悪いことがあると、もうそろそろ理解した方が良くはありませんか?」
「分かっている…っ!」
「分かっていないから黙ったままなのでしょう?」
「それはっ、…妾から、その話は―――うぐっ!」
 晴珠に静かに責め立てられて下がっていた顔を反論しようとして上げた瞬間、右殴りにされて朱援は砂を噛んだ。一瞬で地面を蹴った晴珠の迫る脚に気付かない程に動揺していたのだろう。
「朱援!!」
 庇護を失った狛が高い悲鳴を上げる。
 腕を、晴珠に取られ捻られた。
「おや。このままだと簡単に折れてしまいますね…」
「ぅ、ぐあっ…!」
 痛みに、狛は小さく呻く。
 そして目の前では、脳を揺さぶられて軽い眩暈起こした朱援が蹲っている。
 細い雨が一本、頬を叩いた。




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