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白鎮魂歌(完結)
晒す実



 駆け抜ける足元に草が絡まった。ぴりりとした感触が伝わり、そこは次第に痒くなる。熱さを含んだ痒み。切れたのだと自覚した。肺も痛んだ。全身が痛みで限界を伝えている。それでも、足を止めることなく進み続けた。会いたい人がいる。会って話さなければならない。話して助けてもらいたい。
 今頃、鉄柵を殴り付けた手が痺れ出したが気にも止めなかった。
 通い慣れた道。
 踏み倒された草は、知らない内に道を作っている。背丈程の位置まで下がってきた枝葉に前を遮られながらも走った。その間に狛の頭を支配したのは、過去の思い出だった。まるで走馬灯の様に脳裏を駆け巡る。
 どこで何が狂ったのか分からない。むしろ、始めから整列していたのかも怪しいが。どうして普通に暮らしていたはずなのに、これ程までに哀しみを背負わなければならないのだろうか。ただ、見えないものが見えたと言うだけで。否、それが狂いだったのだろうか。
 こんなことを考えるのは何度目だろう。
 陰鬱な考えに飲まれて、足が枷を掛けられたかの様に重たく感じた。進むことすら億劫になる。その時、頭上の木々が消え、視界が開けた。
 いつもの神社だ。殆ど寂れた、けれど、神聖な空気は消えないままの空間。
 そこに佇んでいた青い影に、狛は力を振り絞って走り寄った。
「晴珠…!」
「どうしたんです、そんなに急いで?」
 晴珠がゆっくりとした動作で振り返る。そのあまりに緩慢な動きに苛立ちさえも覚えたが、事情を知らないでは仕方がないとその感情はすぐに捨てた。しかし、目の前で息を乱している狛を見つめて驚きに変わる。
「どうしたんです」
「っ、蘭角が…!」
「蘭角が?」
 不穏な空気を読み取ったのか、その表情は一気に研ぎ澄まされた。無表情ではないが、何処か意識を見通せない強張った表情だ。
「蘭角が、人間に捕まってっ…」
「殺されたんですか?」
「いや、…でもっ」
「どうしたんです」
「消えちゃったんだ…」
「……」
「だから、陽桜ならって思って…!」
 事の始終を掻い摘まんで告げた狛は、辺りを見渡しながら泣きそうな声でそう叫んだ。一瞬生まれる沈黙に、狛の嗚咽を含んだ吐息だけが響く。どうして晴珠が口を開かないのか分からない。先程よりも難しい表情に、狛は不安を掻き立てられる。朱援は何処に、陽桜は何処に、と色んな考えだけが巡りに巡る。
 そして、やがて返された言葉に、愕然とした。
「無理ですよ」
「…っ、――!」
 信じられないと言った風に狛は目を見開くが、晴珠は相変わらず静かな表情をしていた。白い肌と相俟って、何処か人形と対峙している様な薄ら寒さを感じる。
「何、で…?」
「……」
「消えちゃった人は、戻ってこないのか?」
「……」
「陽桜なら、出来るんだろう…?」
「…言っておいた方が、良いのかも知れませんね…」
「晴珠…?」
「どうせもう、順序に狂いが生じていますし」
「何を――」
「陽桜は、もうここには居ませんよ」
「え…?」
 それは、その深い意味を悟って聞くにはあまりにも冷えた声音だった。
 狛の頬が震える。脳裏に過ぎった嫌な思考を振り払い、全てを冗談だと決め付けるために笑みを貼り付ける。
「あ、ああ、出掛けてて、いないのか?連絡とか、取れないのか?早くしないと蘭角が本当に――」
「優しく言い換えた方が良いんですかね」
 遮る言葉は、今までの彼の優しさの片鱗すら映さない。
「陽桜は、この世界何処を探しても居ませんよ――死にました」
 くつり。
 一度だけ低く笑った晴珠の声に、狛は無意識に自らの腕を抱き締めた。感じたのは、今まででよく見知った殻蟲から人間への憎悪、嫌悪、殺意。
「私が、この手で殺しました。死体は焼いてしまったのでありません。けれど、陽桜が私から遠く離れることはあまりありません。嘘だと思うなら探してみなさい…何処にも居ないでしょうから」
 抑揚なく告げられる言葉からは哀しみなど微塵も感じられない。
「…っ、…」
 そんな晴珠の態度に、狛は震える唇を必死に押さえ付けて激昂した。
「――陽桜は、同じ殻蟲だろう!?ずっと一緒に居たんだろう!?守ってたんだろう…!?…なのにっ…どうして、そんなことっ…」
 徐々に声は薄れてしまった。胸に詰まったしこりに気力が殺がれ、最後には言葉尻が消えてしまう。熱くなった目頭から涙が零れないよう、震える喉元から嗚咽が零れないよう、必死に堪えるしか無かった。
 溢れるのが哀しみか憎悪かは分からない。
 ただただ、胸が痛かった。
 けれど、いきり立つ狛に対して晴珠は顔色を一つも変えない。まるで生き物であることを忘れてしまったかの様に、ぼんやりと佇んでいる。
「陽桜は気付いてしまったんです。私が、全てを仕組んでいたことに」
「な、んて…?」
「……」
「仕組んでたって、どういうことだよ…?」
 狛の問いには答えず、晴珠は静かに笑った。くす、と笑みを漏らした途端、金色の瞳が怪しく光る。
「本当はね、蘭角だって殺してしまうつもりだったんですよ」
「…っ!?」
「それなのに、人間の退治屋はやはり使えない者ばかりですね…、ちっとも役に立ちやしない。だから、…狛くんの中に消えてしまった」
「何で、知ってるんだよ…」
「言ったでしょう。私が全てを仕組んでいたと」
「…、…」
「蘭角を、人間に殺して欲しかった」
「なんで、そんなっ…」
「現状に嫌気が差したからですよ」
「え…?」
「人間と殻蟲なんて、一生分かり合わなくて良いんです」
「っ、そんなことない…!」
 首を振り必死に否定する狛を見つめて、晴珠は諦めた様に笑うだけだ。
 思いもしなかった。
 気付きもしなかった。
 予想もしなかった。
 考えもしなかった言葉を次から次へと浴びせられて、頭が混乱し始める。その混乱を更に掻き回すのは、晴珠の静かな声である。歌う様な柔らかな口調で、刺す様な冷たい言葉を紡ぐ唇である。
 草履が砂を噛む。
「殻蟲を知る、見える人物は、私たちにとって危険極まりない。そして…実に美味です」
「ぁ、…っ」
「怖いですか、私が?」
 狛が後退ったのを見咎めた瞬間、晴珠は更に笑みを深めた。狛が退いた分だけ、晴珠も詰め寄る。そして一歩、また一歩。まるで何処までも付いてくる影の様に離れない距離だ。
「きみは私と初めて会った時も、私を避けましたね」
「…、…」
「ああ、懐かしい…。その怯えた顔…、それだけが私を血に駆り立てる」
「っ…!」
 狛はまるで、蛇に睨まれた蛙になってしまった様に感じた。声など出ない。ただ、晴珠の全身を舐める様な粘ついた声音に鳥肌を立てるしか出来ない。いつしか後退る足すら動かなくなっていた。近付く距離は止まらない。青い髪が、鼻先に触れた。
「狛くんは、痛いのは好きですか?」
「―――ッ!!!」
 にったりと笑った晴珠の表情に、今までの面影など一切無かった。殻蟲等とは関係なく、『化け物』と呼ぶに匹敵する程に、吐き気を誘う歪んだ笑み。血肉だけを貪り食らう、獣の飢えたまなざし。
 首筋に伸ばされた手がゆっくりと動く。触れた感触すら感じられなかった。実際は普通の速さだったのかも知れない。しかし、狛にとっては何よりも遅く見えた。自らの呼吸も、心音も、異様に大きく耳に届く。目に映るのは怪しく光る金色の瞳だ。不自然な輝きに意識が飲まれ、程よい波に揉まれたかの様に眠気にも似た遠のきを感じる。それでも不自然なほどに、周囲の気配を感じないでいた。あの金に五感全てを囚われてしまったかの様に。
 酷く酷く長い一瞬――刹那、空気を裂く様な怒号が上がった。
「何をしている!!」
 同時に意識が覚醒する。
 今まではふわふわと浮いた感覚だった世界が、身体の支えが消え重力に従って頽れたせいで一瞬で消え去った。首に感じたのは鈍い痛みだ。絞められていたのか、新しい空気を取り入れた肺が激しく痛む。
「っぅ、…!」
 しかし安堵する間もなく、髪を掴まれた。背中には重みが加わって立ち上がれない。晴珠だ。青い髪が頬にかかる。足げにされながらも狛が下から垣間見たその表情は歪んでいて、何処か必死な様子に見えた。
「過保護はいけませんよ、朱援。行き過ぎた親切は悪です」
「朱、援…?」
 そうか、先程聞こえたのは朱援の声かと、狛は晴珠の視線を追う。木々しか映らずにまた目を彷徨わす。そして見つけた。佇むのは名指された通りの姿だ。湿気を孕んだ温く緩い風に髪をなびかせ、凜と立っている。ただその表情だけは険しく、いつもの友を見つめるものではない。
「妾の何処が過保護だと言うのかえ?」
 声すらも酷く強張っていた。
 しかしそれに対して、晴珠は場違いな笑みを浮かべてあくまでも明るい声音で返答を返す。
「だってほら。あの時試してみたら、狛くんが叫べば一瞬で飛んでくるじゃないですか?私、本当におかしくって」
 あの時――狛が晴珠に連れられて高い木に登った時の話だ。今とでは明らかに状況は違うが、そんな些細な問題は既に二人の間ではどうでも良いことになっている。
「やはりか」
「気付いていたんですか」
「少しはな」
「意地悪ですね。教えてくれたなら良かったのに」
 おどけた様に肩を竦める晴珠に、朱援は眉間に刻んだ皺を更に深くする。
「妾は…」
 ゆら。
 そして、白い影が残像になって揺れる。それとは対照的に風が凪いだ。
「お前が考え直すのを待っていたんだっ…!」
「っ、」
 晴珠の詰めた呼気が耳に届いてからは、全てが一瞬の出来事だった。髪が解放されて、地面が近付く。しかし不思議と痛みはないのだ。そして狛が気が付いた頃には、全てが白に多い尽くされていた―――否、灰色の空が目に入った。その間に割って入っているのが、曇天のせいでより輝いて見える朱援の白髪。
 振り返れば、腕を押さえた晴珠が笑っている。




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