花シリーズ 番外編
サクラサク 1


 今にもこぼれ落ちそうだと、小向野(こむくの)は思った。
 ほころびかけの桜の蕾が、ひとつふたつと開き始めたのが三月十八日。平年だと十日ほどで満開になり、息つく間もなく散り始めるから、今年はもう葉桜になっているかもしれない。
 春先の小向野のその予想は、しかし杞憂に終わった。
 三分開いたところで寒の戻りがあり、それから三月いっぱいは雪が降り出しそうなほど寒い日が続いて、桜の開花が一旦止まったからだ。
 低かった気温は四月の声を聞くと一気に上昇し、桜も眠りから覚めて再び咲き始め、四月六日の今日、とうとう満開になった。
 まるで今日に照準を合わせたような桜の満開は、小向野にとって嬉しい誤算だ。
「お前さん達だってどうせ咲くなら、今日の方が咲き甲斐があるってもんだ。ご苦労さん」
 小向野は、自分の両脇に並び立つ桜に労いの言葉をかける。
 労られた桜の木々は、満足げに薄桃色の花弁をいっぱいに開かせ、自身の重みで花が枝ごと本当に落ちてきそうだった。
 桜のあまりの美しさに、目を細めた時だ。
「あ、トールン!」
「ほんとだ、トールンだ!」
 小向野は、自分を呼ぶ元気な声に振り返る。
 今、小向野が立っているのは、勾配の急な坂の頂上だ。見下ろすと、見知った顔の二人がゴールの頂上を目指して坂を駆けあがってくるところだった。
 小向野が二人と別の場所で会った先月のあたま、彼らはまだ中学校の学ランを着ていた。それが今日はグレーのブレザーの上下に、胸元にはネクタイを締めたT高校の制服姿でいる。
 真新しい、まだ結び癖のついていない生地が硬そうなネクタイは緑色で、その色は今年入学してくる一年生が、卒業まで使用する学年色を意味していた。
「トールン、本当にT高にいたんだねえ」
 二人は坂道の中腹から息も切らさず駆け寄ってくると、自分達より遥かに背の高い小向野を嬉しそうに見上げる。
「おいおい。ここに来たら、俺のことはなんて呼ぶんだっけ?」
「校長先生」
「そうだな」
 今年四十二才になる小向野徹(こむくの とおる)は、三年前、県内最年少の校長としてT高校に赴任してきた社会科の高校教師だ。
 学生時代は全国に名を知られた柔道の猛者で、元学生チャンピオンに相応しく恰幅の良い体格をしている。
 太い首の上に乗っている、えらの張った顔には濃い眉毛と分厚い唇。一重の目は眼光鋭く、これまで付いたあだ名は全て熊に関わりのあるものばかりだった。
 そんな顔も身体もいかつい小向野が、下の名をもじってトールン、と奇妙なあだ名で呼ばれているのを聞きつけた通りすがりの幾人かが立ち止まり、小向野の前にちょっとした人だかりができ始めていた。
 二人と同じ緑色のネクタイを締めた新入生達が、今日の入学式に出席するため、坂の上にある学校に続々と集まってきていたのだ。
「みんな、入学おめでとう。クラス分けの表は、体育館前に出ているからな。このまま体育館に直行しろよ」
 小向野が太い声を張り上げると、生徒達は慌ててお辞儀をし、満開の桜の下をくぐり抜け校内に入っていった。




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あきゅろす。
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