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からころと下駄を鳴らしながら、欽十朗が話を戻す。格好からして、稽古の帰りがてら、散歩をしているといった具合だ。今から噂の、不吉な瓶を身に行こうという風には見えない。
「それで、運を奪うというのは、具体的にはどういう事なんだ?」
「運を奪う、というのは、一つの場合に過ぎない。他人と接する事で相手の運を吸い取って自分のものにする奴や、単に相手の運を損なわせる奴が居る。体質のようなものとでも言えば解り易いかな。夜にその効果が高まる奴も居れば、古木の下で効果が高まる奴も居る。その者それぞれなのだよ」
「ああ、それでか。周囲の影響を受けるというのは」
「そういう事だ」
気を取り直したらしい狐が、またしても人の形を崩し、本性を露わにする。先程よりも変化が速い。
例の枝垂れ梅と瓶はもう目前、欽十朗は自然、そちらに目を向けている。長く剣道を嗜んできた欽十朗なら殺気に気付いても良さそうなものだが、相変わらず振り向く気配はない。
しかしその間にも狐は首を傾げるようにして曲げると、大きく鋏のように開いたその口を、首もとへと寄せた。首を食い千切る腹積もりなのだろう。そろりそろりと距離を詰める。
「がっ…!」
だが、今度も上手くはいかなかった。首を取る事にばかり集中していた狐が、往来に埋まった石に蹴躓き、前につんのめるようにして派手に転んだのだ。勿論、欽十朗には傷一つない。
「大丈夫か」
「ああ、ちょっとね…石があったのに気が付かなかったんだ」
にっこりと、人の形に戻った狐が怜悧な貌でしゃあしゃあと言ってのける。咄嗟に作ったからであろう、些か過剰な笑みに滑稽さを感じないではいられない。
「所で、渡されたのは南天の鍔だけかい?」
「いや、南天だけでは心許ないからと、菊の図も渡されたな。魔を退けるように、だそうだ」
「その二つだけかい?」
「二つだけだ」
密かに微笑んだ狐の表情に、いよいよ欽十朗も一巻の終わりかと思われたが、それよりも先に、本来の問題であろう瓶の件が待っていた。二人はほぼ並ぶようにして、古い瓶を覗き込む。
「おい、おい、瓶、聞こえているか?」
「いっそ面倒だから、叩き割ってしまってはどうかな?」
「それもそうだな」
「待って下され…」
いっそ清々しい位迷いなく物騒な話を進める欽十朗と狐に恐れを成してか、瓶の中から老爺のような声が響いた。深みのあるくぐもったそれはまさしく瓶の化け物といった具合で、俺は不思議と納得してしまった。
「何だ、返事が出来るんじゃないか。瓶風情が。分かったらちゃっちゃっと返事をするんだな」
「ひぃいぃぃ…」
「おい丘山、余り脅してやるな。瓶、町で事故に遭う人が居るのは、お前の予言が原因なのか?」
狐は丘山、という名前らしい。えらく人間臭い名前だが、人の間に紛れるにはそれ位でなくてはならないのかも知れない。
「はい…全て正直に申し上げます。儂は見ての通り、何の変哲もない瓶の九十九神に御座います。ただ、病を発した職人が死の間際に作り上げた縁でか、傍にあるだけで人の運を削ります。自らが削り取る運が何を起こすか分かるのです。それが故に、瓶を覗く人々に、喋るを幸い、それを伝えておったのです」
「なら、お前に人を害する気持ちはないのだな」
かりかりと意地悪く瓶の縁を爪で引っ掻いている丘山の手を引き剥がし、欽十朗がぐいと身を乗り出して瓶を覗き込んだ。
「はい…恥ずかしながら儂は死ぬのが恐ろしいですじゃ。然れども、人を害する事なく本来の瓶として使命を全う出来たら、どんなにか、と…」
「わかった。お前を俺の家の倉に運ぼう。そら、中の水を捨てるぞ。丘山、手伝ってくれ」
「なんだ、爺の声で喋る君が見られて面白かったのに。もう水を捨てるのか」
そうか、思い出した。どこぞのご隠居があの瓶の話を聞いて、冗談混じりに名を付けたのだったか。瓶鏡、と。
先日欽十朗に話すのを忘れていた。余りにも奇天烈な内容だったのでうっかりしていたのだ。あの瓶は喋ると同時、瓶を覗き込んだ者の姿を水面に借りて喋るのだと。
「じゃあ、俺が此を背負うから、丘山、お前は後ろから底を支えておいてくれ」
「ああ、良いとも」
また、丘山がにたりと笑った。今度は人の顔のまま、しかし釣り上がった口は正に、狡猾な狐そのものだった。二度の失敗を活かしてか、人の姿のまま右手だけで瓶の底を支え、そろりそろりと忍び寄る。
「それにしても、あっさりとした解決じゃないか。瓶、お前まだ何か企んでいるんじゃないのかい?」
「いいえ、いいえ。よもやそんな事は御座いません。ただ…」
「ただ?」
欽十朗が瓶に先を促す。余りに大きな瓶なので、大柄な背中にも据わりが悪いらしく、しきりに体を捻っている。狐の鋭く伸びた爪は、もう首の直ぐ傍だ。
「貴方様は、儂如きと関わりを持とうと何ら支障のない程強靭な、稀有な運の持ち主であらせられると、お見受けしたものですから…」
爪の先が僅かに首筋へと触れるか否かという時点で、ぎゃ!と獣の悲鳴が響いたかと思うと、地面に一匹の、痩せた狐がひっくり返っていた。その狐を踏み付けるようにして、薄くぼんやりと、朧な月のように光る狼が牙を向いている。狐は天敵に出会って死に物狂いで藻掻いているが、全て徒労に終わっているようで、狼はびくともしない。
すとん、と何かそれなりの重さを有したものが土を柔らに叩く音がして、狼の姿は泡沫のように消え去った。欽十朗が瓶を置き、服の中から滑り落ちたであろうそれを拾い上げる。
「雨中独狼の図か…おい、丘山、大丈夫か?」
「畜生!図りやがったな!」
「そんな言い方はないだろう。俺だって鍔鬼から聞いていなかったんだ…それに、成り行きとはいえ、お前は俺の眷属だから、俺を害せばお前に呪詛が返るだろう…おい、立てるか?」
「いい、いいから其奴をおれに近付けるんじゃない!」
刀の鍔らしきものを持ったまま手を貸そうとする欽十朗から跳びすさるようにして、狐が叫ぶ。
古来より狐の天敵は狼か犬と決まっている。今はもう減りつつあるが、古い家などでは煤けた、狐除けの呪い札が貼ってある。狼の文字か絵姿か、山に囲まれた村であれば何処でも目にする機会があるだろう。それにしても、まさか本当に効果があったとは。
一部始終を見終えた俺は、早足でその場を離れた。疾うに酔いなど醒めていて、走っている途中で堪え切れなくなり、呵々大笑とばかりに腹を抱えた。
そうか、そうか。道理で適わない訳だ。獰猛で狡賢い狐をそれと知りつつ供にして、小指一つ動かさずにあしらうのだから。その上、暗殺を失敗した化け物に手を貸すおまけまで付いている。流石は、椿の若様だ。一筋縄ではいきやしない。





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あきゅろす。
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