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数日が経って、皆町の住人が例の瓶を忘れ始めた頃に、店番をしていたら偶々欽十朗がやって来た。
丁度隣街のお坊様と今度の法事の事を相談していたのだが、失礼ながら会話を中断して商売に戻らせて頂く事にした。この進歩的な型の眼鏡を掛けたお坊様も檀家回りのついでに立ち寄ったという話だから、長引くようでなければ支障はないだろう。
「やあ、椿の若様、珍しいな」
「葛丸、余りからかうなよ」
「ははっ、悪い悪い。それで、何か用ですか?お客さん」
「油揚げを五枚ばかり…悪いな。こんな時に…」
お坊様の姿をちらと見て、欽十朗がお馴染みの鉄面皮に申し訳なさそうな色を浮かべるが、お坊様の方にもこれといって気にした様子は見られない。
「いや、いい。いい。お得意様だしな。代金は今度の配達に上乗せで良いか?」
「ああ、そうしてくれ」
折り目正しく会釈をする欽十朗に、袋に詰めた油揚げを渡して、俺はまいどあり、と冗談混じりに笑みを浮かべた。








梅花皮町には、寺がない。
寺どころか、神社や祠の類など、そういった神仏に纏わる一切合切が、何一つとしてないのだ。普通なら廃寺の一つもあって良さそうなものだが、和尚によるとこの場所に寺や神社が建っていた記録は一切無いと云う。
故に、村人は冠婚葬祭の全てを、隣町の寺や神社に頼る事になる。これは異常だ。通常ならどの町どの村にも其処を取り仕切る各々の寺や神社があるもので、余所の村に頼ったりはしない。だが、この梅花皮だけが異例なのだ。
まず人死にが出ると、住民はこの町を纏める椿の家に便宜を図る。そして椿家の指導の元棺や仏壇、死に装束などが用意され、場が全て整った所で経を上げる為、寺の者が呼ばれる。我々坊主が到着する頃には既に墓穴や墓石まで用意されているので、墓地まで行ってまた其処で経を上げ、葬儀は終了となる。以後の法事などは遺族が個別に寺と相談するが、葬儀だけはまず椿家を通すのが習わしとなっている。
婚礼に関してはこれは神社の分野なので良くは知らないが、大体は同じで、ほぼ全ての準備を椿家が整えてから神主が呼ばれるらしい。
場合によっては、それらの式典が椿家の敷地内で行われるのも珍しくはない。
住民はこの制度に不満も疑問も持っていないようだが、どうしても違和感が残る。何せ、件の椿家は、本来であれば寺や神社が建って然るべき場所、町全体を見下ろせる山の上に腰を据えているのだから。
「やぁ、椿の若様」
檀家の一つである葛丸豆腐店の若旦那が、馴染みの人懐っこい愛嬌のある笑顔で視線を外した先には、一人の大柄な、目鼻立ちの整った青年の姿があった。白い長袖のシャツに、学生服だろうか、黒いズボンを穿いて、足には黒い鼻緒の下駄を下げている。
これといって、大柄な以外には特徴のある若者ではない。しかし一種独特の泰然自若とした空気を持っていて、かといって無意味に家の威光を傘に着て威張った風情もない。
彼が豆腐店のひさしの下に頭を潜らせて、やっとその顔に刃物の傷があると分かったけれども、決して先程までの印象を変えるものではなかった。
豆腐店の若旦那とはわりかし親しい間柄なのか、一言二言冗談混じりに会話を済ませると、若旦那と私、それぞれに会釈をして帰っていった。頭を下げるその仕草も随分自然で心地良いもので、ははあと感心してしまったものだが、去って行く彼の後ろ姿を何気なく見て、ぎょっとした。
黒いのだ。右手の先が。
どうして今まで気付かなかったのだろう。まるで炭でも漁ったように、右手の先が真っ黒だ。強い火で燻されでもしたかのように黒い。
豆腐店の若旦那が指摘をしなかった理由を考えずとも、一目見れば明らかだ。あれは、人とは何か別の、異形のものに纏わる不吉なものだ。まさか本人は気付いていないのか。そう思って辺りを見渡すが、害を成していると思しき魑魅魍魎の類は見当たらない。大抵、何処の町でも村でも多少の妖は蔓延っているものだが、不自然な位通りは綺麗で、がらんとしている。
そういえば、今まで一度も梅花皮では妖を見た事がないのだ、と気付いた途端ゾッとして、私はただただ、黒い手を持つ彼の後ろ姿が遠ざかるのを、黙って見ているより他はなかった。









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あきゅろす。
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