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ぺた。ぺた、ぺた、ぺた。
裸足の足が、ワックスで光る床と当たって、僅かに湿った音を立てていた。白い廊下を行き交う人々が、控え目に叉は不躾に彼を見る。
丈の短い墨染めの着物を着崩して、長い髪は伸ばしたままに揺れている。目は何故だか妙に黒目が大きくて、鼻が真っ赤に染まっていた。遠目からだと一瞬ならば血のように見えるが、明らかに人工の赤だった。顔に付いたものを擦ったのだろう、指先も赤い。
明らかに様子がおかしい彼に声を掛ける者は居ない。入院患者もその見舞いに来た人々も、関わり合いたくないといった様子でそそくさと逃げるように散ってゆく。医者や看護士はまた別で、彼にかかずらっている程の暇はない。忙しなく行き来している。
消毒液や薬品の臭いがそこら中にぷんぷんしていて、あの人間達を探すのは骨が折れる。だが、殆ど換気をしない室内は、逆に言えば痕跡をそのまま残しているという事で、途切れる心配はまずない。ゆっくり探して、見つけ出してやるとしよう。彼がそう思って、にやり。ほくそ笑んだ時だった。
「待てよ」
誰かが、後ろから彼の肩を掴んだ。振り向いてみるとそれはまだ若い人間の雄で、目鼻立ちが酷く整っているが、瞳の色も宿る性質も鋼のようで、どうにもいけ好かない。一カ所だけ椿の家紋を白く抜いた黒い刀袋を持っている。
武士か。
彼は奥歯を噛み、僅かに舌を打った。
「…オレもあの夜の事を見ていた」
人間がそう告げたのと同時に、彼の行動は決まっていた。




病院の中に一歩足を踏み入れた途端、丘山が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「血の臭いがする」
当たり前だろ。言おうとするよりも前に、丘山が舌打ちをして吐き捨てた。
「君の弟の血だ」
「えっ…」
意味がわからなかった。なんで銀牙の名前が出てくるのか。
「もしかして…君、鉦継くん?」
混み合う待合室で、優しげな風貌の看護士が聞いてきた。
「え、あ、はい…」
「良かった。弟くん、あっちで待ってるから。行ってあげて」
看護士が行くように促したのは、廊下の壁に貼られた「外科」のプレートが矢印で示す先で、何が起きたのかを漸く理解した。怪我をしたのだ。あの、銀牙が。
立ち止まってから、意を決したように鉦継は早足でそちらに向かった。
「つくづく厄介だね。兄弟っていうのは」
たっぷりと皮肉を込めて小声で呟きながらも、丘山は看護士に笑顔と会釈を向けて、悠々と鉦継の後に続いた。
廊下の角を曲がると丁度、ある部屋の引き戸を鉦継が乱暴に開けている所だった。即座に怒鳴り声が廊下に響く。
「なにやってんだよお前!!」
世話が焼ける主だ。溜め息を吐きながら、丘山もそこに向かう。
「鉦継、病院で煩い」
「あ、ごめん…じゃねぇよ!お前何やってんだよ!」
「鉦継には関係ないだろ」
「そんな血ィダラダラ出しといてなに言ってんだよ!」
成る程、鉦継が言う通り銀牙の腕には包帯が幾重にも巻かれていて、充てられた厚いガーゼには血が滲んでいる。範囲の広さから割に深手なのが見て取れる。
「もう止まってる。痛み止めも飲んだし、問題ない。これから母さんがこっちに来るから」
いっそ冷淡な迄の態度だ。眉一つ動かさない。到底、十四かそこらの子供とは思えない態度だった。
「お前っ…なに考えてんだよ!イミわかんねーよ!」
「それより」
詰め寄る鉦継の台詞を、銀牙が珍しく強い語調で遮る。
「あいつ、梅花皮に帰ったよ。社を離れたくないみたいだ」
見事にすれ違った訳だ。確かに、もうこの病院に妖の気配はない。場と成らない時点で違ったのだ。
「猫背で、身長はオレと同じ位。丈の短い黒い着物を着崩してて、白目が少ない。あと、鼻がペンキで汚れてた。入院してた暴走族は…大事には至らなかったみたいだ」
「君の弟、中々小賢しいじゃないか。それで鉦継、どうするんだい?」
硬直する主の肩を叩いて、動かす。扇動する。
以前の主に比べて、此度の主は典型的な直情型だ。いや、どちらも真っ直ぐに目的に向かおうとする所は一緒なのだが、まだ子供なせいか、余裕がある内は反抗心が先に立ってしまって、本来の気性を発揮しない。だが鉦継は間違いなく椿の血を誰よりも濃く継いでいて、迷う理由がなくなれば、荒々しい迄に、強い。
「…行くに決まってんだろ」
低い声で零して、振り向かずに病室を出て行く。走る姿を看護士が見咎めるが、それすらも聞こえていないようだった。
「クダ」
銀牙が丘山を呼ぶ。
「…お前なんだろう?」
強く睨め付けてくる銀牙を喉の奥で嗤いながら、狐は軽やかな口調で言った。
「さあね。僕の預かり知らぬ話さ」
ひらり。身を翻して去ってゆく。銀牙の耳には異形の言葉が聞こえない。




音のない神社で、背後から石を投げられた。
「お前、なんだろ?」
息を荒げた、さっきとは違う若い人間の雄が居た。こいつも毛の色がおかしい。
またか。また、人間か。
「オレの弟に手出ししてんじゃねぇよ!あいつは関係ねぇだろ!」
「お、とうと…?」
先刻、腕を切ってやった毛艶の良い奴を思い出す。見た目はまるで似てないが、臭いだけは似ている。そうか、成る程。敵討ちという訳か。
「人間、先に手を出したのはお前らだ」
「銀牙は何もしなかっただろ!」
「俺の住処を荒らしたのはお前らだ…」
人間はこうも身勝手なものなのか。そうだ、いっそ、やって来る人間を全部殺して、毎日静かに眠っていよう。
「だからってあそこまでやる事ないだろ!」
鉦継が叫ぶが早いが、黒い着物を着崩した人間もどきの姿が変じて、一匹の大きな白い獣に変じた。電光石火の早業で、飛ぶようにして鋭く光る爪を向ける。
喉の皮膚を裂こうと空を斬る。唸る。
「当事者を置き去りのままとは、頂けないな」
ガッ。
鋭い爪の届くより前に、巨大な狐の頭が鉦継の頭を肩越しに追い抜いていた。
「…エグっ」
「煩いなぁ。助けられたくはなかったのかい?」
つり上がった眼がぎょろり。鉦継を見下ろした。黒い瞳が僅かに青みを帯びている。
姿は狐の化け物なのに、何時もの声で喋るものだから、頼もしいは頼もしいが違和感が凄まじい。
「鍔鬼から鍔渡されてたんだよ」
「ああ、成る程…」
丘山の口の先には、挟むようにして白く小さな獣がじたばたとそこから逃れようと足掻いている。狐が牙を剥いているせいで、鼬が爪を振り回しても傷は負わせられない。澄んだ音を立てるだけた。
「離せ!離せ!」
「よくもお前のような腹の足しにもならない小物が…僕の社で好き勝手にしてくれたものだ。覚悟しておけ」
「はぁ?」
静かな声の中にも冴え冴えとした怒りを滲ませる丘山の発言に、一人と一匹は目を剥いた。




梅花皮稲荷の変わった所は、狛犬にあたる眷属の狐の像がなくて、代わりに灯籠が立っている事と、そして何より、祀られているのが狐そのものだという事だ。
その由来は戦前戦後、谷の権力者である椿欽十朗の周りに現れる狐の加護を受ければ災いを退けられるとして、戦争の最中に谷の鎮守を願って建立したのが始まりだ。梅花皮出身の兵士が、先の大戦で傷は負えども命は取られずに帰ってきた事から信仰を集めたのも大きいだろう。
おわす神の名を、谷千尋群青(たにちひろぐんじょう)と云う。
「そんな訳で、ここは梅花皮の人間が建てた僕の社なんだ。しかし、最初は使っていたけれど、一々欽十朗に呼び出されるのが面倒でね…その内本尊の筒もあの倉に移動させてしまったし、まあ別荘のようなものさ」
「お前神かよ!」
「見直したかい?しかし、残念ながらまだ天狐ではないんだ」
「ももも申し訳ありません。まさかあなたのような大妖様の住処だったとは…」
人間に化け直した鼬が、顔を真っ青にして土下座を始める。本殿の階段の上に座って足を組む丘山はその様子に満足したように息を吐いた。
「フン。今回は許してやろう。だが、白矢(はくや)、だったかい?次はない」
これには鉦継も驚いた。丘山とはまだ付き合いが短いからなんとも言えないが、特別底意地の悪いのは確かだからだ。こんな機会があれば鼬――白矢をいたぶり弄ぶのは目に見えているというのに。
「狐狸の中にも習わしがあってね。強いものはまだ完璧に化けられないものを殺してはいけない事になっているんだ」
鉦継の表情を読んだのだろう。丘山が補足する。
「確かに…銀牙から話聞いてたけどこれはヒドいな」
まず、目が獣のままだし、格好も時代錯誤甚だしい。髪型も黒く変えたのは良いが切りそろえてないごわごわの、明らかに獣のものである。加えて口の中を覗いてみると、凡そ奥歯というものがない。一目で人間ではないと知れる。
「このご恩は一生忘れません!丘山様!どうぞこの白矢、如何様にもお使い下さい!」
「えええええ…」
「面倒臭いなぁ…じゃあ、これからはここの縁の下に住んで、何かおかしな妖が居たら知らせてくれ」
「はいっ!有り難き幸せ!」
棒読みの丘山に対し、白矢は感激の余り涙さえ流して喜んでいる。
鉦継は密かに白矢に同情したが、調子に乗った己が眷属の尊大さが気に食わなかったので、とりあえず殴っておいた。






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あきゅろす。
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