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【遠い夏の日】3.



「…どこに行くの、ゾロ」

駆け出そうとした背にそう声がかかったのと、冷たい掌に手首を掴まれたのとは、いったいどちらが先だっただろう。
弾かれたように振り向いた先に、怪訝そうに自分を見つめる涼やかなアイスブルーの眸があって、ゾロはつかの間眼を見開いたまま放心した。

「こんな格好で、髪もまだ濡れたままだし……そんなに急いで、俺を置いて、どこに行くつもりだったの?」

男は眉を微かにひそめ、ゾロが首にかけたままで居たタオルを取って髪の毛を拭きながら言う。

「どこ…って、お前……、」

帰ってしまったんじゃ、無かったのか。
ゾロは思わず男の頬へと手を伸ばした。
確かめるようにぺたりと指先を触れ合わせ、掌で包み込む。
皮膚を伝わってくる馴染んだ温もりに、不穏に逸っていた精神が嘘のように落ち着いて、重く鈍っていた脳までクリアになっていく気がする。
感触を噛み締めるように親指の腹で軽く撫で擦ると、髪の毛を拭いていた男の表情が、ふと柔らかくなった。

「…何だよ」
「……うん。あんたがこんな風に触れてくれるなら、言いつけどおり帰らないで待ってて良かったなって、思っただけ」

睨まれたとき、心臓止まるかと思ったんだけどね……、と。
呟くその眼に微かな苦笑と悲哀の色が滲むのを、睫の先が触れ合うほど間近に眼にして、臍の奥がズキリと苦く疼く。

「……すまねぇ」
「あんたが謝る必要なんか、何もねぇよ…。元はといえば、約束の時間を勝手に早めて家に上がりこんでた俺が悪いんだから。あんたの都合もあるのに、ごめんね?」
「………」

―――都合なんて、そんなもの。
お前と一秒でも多くの時間を過ごすこと以上の優先事など、あるはずもないのに。
ゾロはまた口をついて出そうになった謝罪を飲み込むと、謝る代わりに緩く首を振り、頬に触れていた手を離して男の腰を抱いた。
唇の端に口付けて頬を摺り寄せると、男の口端が、嬉しそうに弧を描く。その様に、言い知れぬほど安堵する。

「……お前、どこに居たんだ?風呂上がったら、お前の気配、全くしなかった。絶対ここから動くなっつったのに縁側にも居ねえし、だから…」
「俺が、帰ったかと思った?それで俺を追いかけようとして、こんな格好で外に飛び出してきたの…?」

眼の奥を覗き込むようにして尋ねられて、頷く。

「俺が帰るわけないのに…。あんた、待ってろとは言ってくれたけど、帰れとは言わなかったでしょ?だから俺、あんたが風呂から上がるのを待ってる間、庭や家の裏を散策してたんだよ。ウチの近くでは採れない薬草や山菜が、ここにはたくさん生えてるから」
「………虫も、たくさん居ただろ」
「ああ、大きなカラスアゲハが居たよ。虻も蚋も蝉も居た。蛾の屍骸が落ちてきたのまではかろうじて我慢できたけど、ムラサキシジミの大群に足元囲まれたらもう駄目で、慌てて戻ってきたんだ。そしたらあんたが門を出て行くところで………ねぇゾロ、あんたが望まないなら俺は今すぐここを去らなきゃならないけど、俺が自らの意志で去ることなんて絶対無いよ。それだけは信じて覚えていてね…」

まるで頑是無い幼子をあやすように、切々とした穏やかな声でそう言って、男が背を抱き包み返してくる。
耳朶に囁かれる声に頷く頭を、猫の仔でも撫でるように優しく撫でられて、とろりと意識が蕩けて撓んだ。
顔を埋めた首筋から伝わる穏やかな脈動。コロンと煙草に混じって香る、微かな汗のにおい。時折項を掠めるように撫でる、冷たい指先。
照りつける陽射しの強さは変わらないのに、これほど密着していても少しも暑苦しくなく心地よく感じられるのは、この男の体温だから。
失くしたら、離れてしまったらと想像するだけで不穏な動悸に背が冷たくなるほど肌に馴染み、幾度も身体の奥深く刻み込まれて骨の髄まで惚れ込まされた愛しい相手の体温だからなのだ…と閉じた瞼の奥で噛み締める。
このまま寝たら、きっととてつもなく気持ちいい。
ここが炎天下の門前だなんてことも、上はともかく下はトランクスに裸足なんていう通報されても文句の言えない格好なことも脳の片隅に追いやってゾロが込み上げてくる睡魔に懐いていると、今にも寝そうな自分の気配を察したか、男が「ゾロ、縁側に戻ろう」と囁いてきた。
頷くのを待たず、米俵か何かのようにさっさと肩に担がれて、燻っていた眠気が一気に吹き飛ぶ。

「ちょっ…降ろせ!」
「駄目。もしかしたらと思ってたけど、やっぱりあんた、足の裏怪我してる。こんな草と砂利だらけのところに裸足でいつまでも立ってたら、そのうち破傷風にでもなっちまうよ」
「んなもんならねぇっ。いいから降ろせ、てめぇの方こそ腰ヤられて潰れても知らねぇぞ!」
「……あんた、俺の力侮ってんの?それとも、俺の腰がヤられたらエッチできなくなるから、心配してくれてるわけ?まさかこの状況で俺があんたを降ろせるわけがないのをわかってて、縁側までのたかだか三十秒足らずの間も恥ずかしくて我慢できないから降ろせとか、そんなことは間違っても言わないよね?」
「……っ」

暴れて繰り出した膝が男の鳩尾を強か打ってしまい、マズイと怯んだ刹那、低めた声で畳み掛けるようにそう言われ、ゾロは返答を詰まらせた。
細めたアイスブルーの瞳に冷たく一瞥され、肩が食い込む臍の辺りが急に痛みを覚えて萎縮する。
男は黙ってしまった自分をさっさと縁側へ運び降ろすと、それで気が済んだのか、幾分柔らかな声で言った。

「……ね、大丈夫だったでしょ。あんたを担いだくらいで俺は潰れたりしねぇし、恥ずかしいのもほんの一時だけだ」

穏やかさの戻った眼差しに促され、半ば放心気味に小さく頷く。
男はにっこりと笑んで隣に腰を下ろすと、タライを引き寄せてタオルを濡らし、ゾロの足の裏を己の太腿に乗せて丁寧に拭い始めた。

「……擽ってぇって…、」

むずかるように呟いて、ゾロは僅かに身を捩った。
過敏な皮膚の表面を、タオル地が繊細な動きでやわやわと擦るのだ。
時折ピリッとした痛みが小さく走る以外はただひたすらにこそばゆくて、皮膚が破れようが血が出ようがそんなことはおかまいなしに今すぐガリガリと掻き毟ってやりたい衝動に猛烈に駆られながら、ゾロは「自分でするから」という言葉を何度も言いかけては飲み込んだ。
全くトチ狂って居るとしか思えないけれど、この男は自分の世話を焼くのが大好きだから。
目を凝らして傷口を見つめ、時折思い出したようにゆったりと睫を瞬かせながら汚れを拭い、傷口に食い込んだ砂利をそっと取り除いたりしている男の横顔が、気遣わしげなのに何とはなしにやっぱり楽しそうなことに気づいてしまったから、ゾロは結局最後まで男のしたいようにさせ、握りしめた己の掌にきつく爪を食い込ませることで衝動を堪えた。

「はい、ゾロ、綺麗になったよ。後は傷薬塗って綿布でも巻けばいいんだろうけど…」
「要らねぇ。これで十分だ、ありがとよ」

名残惜しげにタオルが離れると同時、さっさと足を引き戻して胡坐をかく。
男は苦笑を浮べて庭へ降り、庭端の山と同化した斜面から滾々と湧き出る湧き水で銀のたらいを洗って、新たな水を汲みながら言った。

「…家の中でも、あんまり歩き回ったら駄目だよ。細かい傷ばかりだけど、特に右足の方はたくさん出来ちまってるから、なるべく爪先立ちで歩くようにして」
「は?冗談、んなんで歩いたら、女みてぇな歩き方になっちまうじゃねぇか。歩きにくくてかえって引っくり返るっつーの」
「へぇ?たかが爪先歩きごときで引っくり返るほど、あんたが鈍くさいなんて知らなかったな」
「チッ…嫌味くせぇ野郎だ」
「俺は嫌味な男だよ。あんたが一番よく知ってるでしょ?……でもね、そしたら俺が喜んで受け止めてあげるから、あんたは安心してコケときな」
「そりゃどうも。…むしろそっちのが身の危険感じるけどな」

くくっと笑ってそう言うと、タライを手に戻ってきた男も「正解」と密やかな笑みを返してくる。
ついでのように手渡されたタライの中には、いつの間に入れたのかトマトや水蜜が入っていて、そう言えばさっきタオルを冷やしたときは水だけしか入ってなかったなとゾロは今更のように気づいて内心ハッとした。
当然といえば当然だ。この男が、食べ物の入ったままのタライの水でタオルを濡らすはずがない。
けれど。

「お前、どっからこれ……」
「ああ…水が温くなりかけてたから、あんたがシャワー浴びてる間、湧き水の窪地に移して冷やしてたんだよ。タライの水は、あんたが戻ってきてから替えようと思って不精だけどそのままにしてたんだ。幸か不幸かそのおかげですぐにあんたの足を清めることが出来たから、捨てないでおいて良かったなって密かに自賛しちまった」

言いながら白い手が水面を撫で、音も無く潜り込んで透き通った碧色の壜を引き上げる。
額に寄せてホッと心地よさげに一心地着く様に眼を奪われ、つられるようにゾロも同じものを取り出した。
水滴が涼しげにきらめく様をまずは眼で楽しんでから、ビー玉を落としてぐびりと一口喉に流し込む。
爽快な酸味が鼻の奥までスッと突き抜け、次いで急激に沸き起こった喉の渇きに、ゾロは喉を鳴らして一気に飲み干した。
ぷはっと息をついて口端を拭う自分を横目に見守りながら、目尻を下げて男が微笑う。
ゾロは目尻を染めて視線を逸らした。
欠片も見逃すまいというようにじっと見つめてくる視線の強さは真摯過ぎていっそたじろぐほどだというのに、その眼差しの浮べる色ときたら、いつだってとびきり甘ったるくて、こそばゆさに思わず面映くなるほどで。
この眼は苦手だ、慣れないと思うのに、身体のどこかがトクンと温かく満たされる。その感覚に、眼が眩むほど歓喜する。
こんな眼差しで自分を見つめる人間など、今まで誰もいなかった。
こんな……愛しくて堪らない、と言葉で語るよりも雄弁に想いの熱を伝えてくる眼差しなど、誰かに注がれる日が来ようとは思ってもみなかった。
……そんな人間、この先の未来にだってきっともう二度と現われはしない。

「…………あんま、見るな」

どんなに大事で失くしたくないのだと地べたに額を擦り付けて希ったとしても、不変で不滅のものなどこの世には決して無いのだということを、自分は祖母を亡くしたその時にまざまざと実感して知ってしまっているというのに。
注がれる視線に至福を覚えれば覚えるほど、取り上げられて失くしたときの懊悩や苦痛は、強く根深く己に刻み込まれるというのに。
わかっているのに、それでも男の眼差し一つにいちいちこんなに胸が震え、失くすと思っただけで息が止まりそうなほど胸が詰まって容易く取り乱してしまう自分を、ゾロは止められない。
理性も抑制も遠く及ばない場所から沸き起こる衝動に、こんなのは自分じゃないと微かに慄きすら抱きながらも飲み込まれてしまう。
今ですらこうなのだ、これ以上この眼差しに見つめられながら生きることに慣れてしまったら、自分は………。

「うん…?何か言った?ゾロ」

胸中でポツリと小さく呟いた言葉は、どうやらそのまま微かな意味を成さない音となって零れてしまっていたらしい。
怪訝そうに尋ね返してきた男に、ゾロは首を振って言った。

「……盆の準備するかって言ったんだ。お前、大掃除手伝えよ。あと、飯炊いて塩鱈茹でて、厚揚げ蒟蒻の煮しめも作ってくれ」
「…いいよ。何でも手伝うし、何でも作ってあげる。あんたがもう一度、今度はちゃんと唇にキスしてくれるならね」

ごまかしたことにうっすらと気づいているのだろう、男が薄い笑みを浮べて言う。
薄い膜一つで隔てたように感情の読めないその笑みは、シニカルを装いたいときの男の仮面だ。
叶わなければ傷つくくせに、叶っても叶わなくても構わないのだと予防線という名の虚勢を張る。
誰よりも愛される自分に自信の無い男の、痛々しい癖。
この男のこんな表情はもう見たくないと思うのに、させているのは他ならぬ自分だ。

「………安い奴」

すまねぇ、と。謝る代わりにゾロはそう呟いて、男の白い頬へ手を伸ばした。
歪んだ笑みを解すように親指で軽く撫で、唇を寄せる。
触れ合う直前、笑みを模ったままの唇が微かに震えたのに気づいたけれど。
構わずゾロは男の項に腕を回して唇を吸い、潜り込んできたラムネの味のする舌を、男の気の済むまで宥めるように甘く食んで貪り続けてやった。







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