「らっしゃい!」
店に到着すると、アニスは何のためらいもなく引き戸を開けた。そして入ったと同時に威勢の良い声に迎い入れられ、それに手をふって応える。
「久しいねぇ、兄ちゃん!お、今日は彼女が一緒かい?」
「香夜ちゃんは僕の」
このパターンも慣れたもので、アニスの口を咄嗟に手で覆いながらお店の人に苦笑いを見せた。
言われなくても、続けられる言葉がわかるって嫌だったけど……。
「仲良いねぇ」と言う店員さんは、豪快な笑い声を上げながら奥の部屋へと案内してくれた。
小さなお店にはカウンター席が四席と、小上がりには二つのテーブル。店内にいるお客さんは小上がりのテーブルに二組と、カウンターに一人のお客さん。
私達が通されたのは大きなテーブルのある個室で、更には生簀のある調理台とカウンターまでもがあった。さながらお店の中にもう一つのお店があるようだ。
「アニス様を兄ちゃんだなんて言っちまって、すまねぇっす」
「“アニス様”だなんて呼べば他のお客さんに変な目で見られるし、仕方ないよ。“郷に入っては郷に従え”だよ、アデルバード。あ、香夜ちゃん。この店の店長で板さんやってるアデルバード」
テーブル席に着くとアニスはおじさんを宥めるように制し、滅多に見せないような笑顔を向けていた。
そして私におじさんを紹介すると、そのおじさんは頭を下げたので私もつられて頭を下げた。
「あの……もしかして、店長さんはアニスと同郷の方?」
「へい、あっしも魔界の者でさぁ」
アニス達の会話を聞いてもしやもしやと思って聞いてみれば、やっぱりと思う答えが返ってきた。
白髪混じりの頭に四角い顔、額には捻り鉢巻の店長は一見どころか、よく見ても人間にしか見えないのに。
「店長さんなんて言わんでくだせぇ、あっしはアデルバード・ワイアットだ。よろしくな、姉ちゃん。アデルって呼んでくれ」
人好きする笑顔をしながら、アデルさんは頭を掻いた。
テンションが高めだけど、とても優しそうな人だ。
「アデルバード、いつもの鍋食べたいな」
「はいよ!」
アニスの声によりアデルさんは大きく手を打ち、乾いた音が個室に響いた。
「今日は活きの良いゴラゴラが手に入ったんでさぁ!アニス様にも満足してもらえるにちげぇねえ」
そしてアデルさんはウキウキとした様子で部屋を出て行った。
アデルさんが出て行き、私はテーブルにあったメニューを手に取った。
そこには様々な鍋料理がズラリとのっている。昔なじみな鍋料理から、最近流行の鍋料理まで、種類は様々。
名前から想像出来るから、私のお腹が反応してしまうのは仕方ない。
「待っててね、今準備してるから」
お腹の音を笑われるのかと思えば、穏やかに微笑まれただけに終わった。
……何だか調子が狂う。と言うより、何か裏でもあるのかと疑ってしまう。
「そ、それよりもゴラゴラ?」
「香夜ちゃん、ゴラゴラ知ってるでしょ?」
私が発した言葉で、アニスの微笑みは一瞬にして消えた。
知らないもなにも初めて聞く単語だから聞いたのに、アニスは呆れ顔で聞き返してきた。
言い返したいけれど、本当に知らないのだから何も言えずに頷いた。
「僕の大好きな魚だよ。ほら、よく冷蔵庫に入れているあの魚」
ほらと言われて思い出すのは、冷蔵庫を開けるたびに目が合う、あの魚。
小さいくせに大きい目玉ばかりが飛び出ている、あの魚。
「……私、お腹空いてな」
「アデルバードは料理上手なんだよね、あっちの世界でも有名な料理人だったんだ」
「それでもですね、私はあの魚が」
「はいよ!お待たせ!」
気持ち悪いんですと言いたかったのに、アデルさんの登場で喋る事は出来なかった。
そしてアデルさんは大きなクーラーボックスを肩に担ぎ、片手を上げて入って来た。
たった今釣ってきたよと言わんばかりの堂々とした姿にまじまじとアデルさんを見てしまう。
「しかしアニス様たまげましたよ。最近姿を見ないと思えば、女の子連れだなんてねぇ」
「いいから早く作って。僕も香夜ちゃんもお腹がペコペコなんだからさ」
「了解しやした!」
アニスに急かされ、アデルさんは私達のいるテーブルにクーラーボックスを置いて、そのふたを開けた。
「やっと開けやがったかクソ料理人!息が出来なくて死ぬかと思ったぞ!」
「活きが良いねー」
「これだけ活きが良いと、お造りも出来まさぁ」
「良いね、それも出してくれる?」
「がってんでさぁ!」
二人のやり取りをどこか遠くで聞きながら、私はクーラーボックスの中で暴れる魚から目を離せない。
「何見てやがんだ女!……おい、お前人間だろ!?クセェ、人間クセェ!」
もはや唖然。
大きな目玉を揺らす魚は口をパクパクとしながら、暴言に近い言葉を喋っているのだから。
「なんで人間がいんだ!人間なんかに食われてたまっか!俺がお前を食ってやる!食うぞ、食うぞっ!」
アデルさんはアニスと喋りながらクーラーボックスからゴラゴラを取り出し、まな板の上に乗せた。
ゴラゴラの目は依然私を見たまま、そして暴言を浴びせている。しかし二人は、それを気にする様子を見せない。
私が今まで見ていたのは静かに冷蔵庫で私を見る、あの魚……ゴラゴラ。
「まさか、アデルさん……。これを調理するんですか?」
「香夜ちゃん、そのまさかだよ」
アデルさんに問いかけたのに、なぜかアニスが答える。それも得意そうに。
「食えるものなら食えよ!呪ってやるからな!絶対に呪ってやるからな!」
「本当に活きが良いみたいだねぇ。楽しみだな」
頬杖をつくアニスは目を細めながら身体を揺らし、鍋の準備をするアデルさんを眺めていた。
「おめぇらも幸せだな、アニス様に食べてもらえてよ」
「あ?アニス様だぁ?」
今の今まで私を見ていたゴラゴラはアデルさんの言葉に反応し、大きな目玉を器用に動かしアニスに視線を止めた。
「おお!王子がいる、王子だ!」
「王子に食われるなら仕方ねぇな。おいオヤジ、さばくならさばけってんだ!」
「俺が一番活きが良いぞ!刺身は任せとけ!」
まな板の上に乗るゴラゴラは口をパクパクと動かしながら、さっきとまでは違う友好的な口調へと変化した。
それにいまだクーラーボックスにいるゴラゴラもアニスに食べられるのを望んでいるような声を上げている。
「そこの人間。王子の前だ、今回テメェは見逃してやる。美味くなった俺達を味あわせてやるから光栄に思えよ」
いや、それは出来れば遠慮したい事ですから、光栄に思えないです。
睨んでると見まごうゴラゴラの目玉に怯える私は顔を逸らした。
でも私の事は食べてやるとか呪ってやるとか、散々な口を利いていたのに……。
どうしてアニスには自ら食べてもらいたいと言わんばかりの口の利き方をしていたのだろう。
「香夜ちゃん、本当に美味しいからアデルバードの調理の仕方とか良く見て覚えてね?」
逸らしていた顔をアニスに無理やり押さえつけられ、そしてまな板の上で今から捌かれようとしているゴラゴラを強引に見せられた。
目を閉じたくても、瞼ごと押さえつけられているものだから、瞳が乾いて痛い。
「痛いっ、痛いです!見ます、見ますから離してください!」
「じゃあ約束、ちゃんと見ててね」
アニスから解放され、引っ張られていた瞼を撫でながらアデルさんの前に横たわるゴラゴラに渋々視線を戻した。
さっきまで跳ねていたゴラゴラは途端に大人しくなっていて、本当に食べられるのを待っているように見えた。
「美味しくしてやっからな?」
「うぎゃああああっ!」
アデルさんが一言喋るとほぼ同時に、ゴラゴラの断末魔が個室に響いた。
そんなゴラゴラを気にもせず、アデルさんは包丁を動かしている。
大きい目玉が小さな身体から切り離され、湯気を立たせた鍋に次々と放り込んだ。
アデルさんは調子付き、軽快な音を立てながら包丁を操り、アニスは今か今かと鍋に放られるゴラゴラに目を輝かせていた。
活きの良かったゴラゴラは皆最期の雄叫びを上げ、目の前で殺人事件を見せ付けられたような気分になった私ばかりが顔を青褪めさせていたのだった。