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◆短編
糸の先の獣
蜘蛛の糸の続編になります。



物事の数手後を読み、あらゆる事態を想定している俺でもこの状況は想像していなかった。

「……兄さん?」

「おあ? なんだ、はえーな」

「あら、弟さんなの? カッコいいわねぇ」

穏やかな声で老婦人が何か言っているのは理解しているけれど、その内容が明確にならない。
俺が酷く動揺しているのは明らかだ。

なにせ

引きこもりで、出不精で、やる気がなくて、人づきあいが嫌いな兄さんが

自主的に外に出た上、赤の他人と仲良さげに話している。

なんだこれ、俺は知らない。
なんで兄さんはこの人と楽しそうに話してる?

そういえば以前兄さんの世話をよくやいていた家政婦も老婦人だった。
もしかしてその年代にコンプレックスがあるのだろうか?

家政婦だった彼女は豪胆な所があったけれど、今この場にいる女性は上品な女性といった雰囲気でタイプは違う。
だけど兄さんが声をかけ、兄さんが笑いかけ、兄さんと同じ空間にいる。

なんで?
なんでなんでなんで?

「……い、おい?」

「あ、ごめん。ぼんやりしてた……」

「具合でも悪いの? 時間が大丈夫なら家で休んでいって頂戴」

「いえ、そういう訳ではないので。お気遣いありがとうございます」

おろおろと俺の顔を覗き込む老婦人を手で軽く諌めると、心配を解消させるために笑う。

笑みというのは非常に強い武器だ。
大体どんな者でも好意を抱くし、安心する。

ただし俺に対して興味がない兄さんみたいな人には効かない。
悔しいけれどまだ兄さんの心で俺が占める割合はほんのわずかだ。

「あ? じゃあなんで早く帰って来たんだ?」

「今日は取引先に直接行く仕事があって時間がかかるから直帰の予定だったんだけど、相手方の都合でかなり早く切り上げになったんだ。一応会社に連絡したけど帰っていいとの事だったからね」

だから今日は兄さんと長い間一緒に居られると思っていたのに。
この状況は何だ?

わからない。
わからなくて気持ちが悪い。

「そう、具合が悪いんじゃないのね。よかったわ」

安堵したように老婦人は胸に手をやり、穏やかに微笑んだ。

表情に出ないように奥歯を噛み、不躾でない程度にその姿を値踏みする。
おそらく、善人。
見た目だけですべては読み取れないけれど、まったく知らない俺に対してまで心配を向けてくれる人なのはわかる。

そんな人に敵意を向けてもどうしようもないというのもわかっている、……わかっているが兄さんの感情の一欠けらでもそちらに向いていると思うと胃がひっくり返りそうな程憎たらしい。

俺の兄さんなのに。
俺だけの兄さんなのに……!

「じゃあ俺らこれで帰りますわ」

「あら、もういいの?」

「はあ、何となくわかったんで」

普段敬語なんて使わない兄さんの精一杯の敬語。
ちゃんと使えてない辺りがとても可愛い、ああ兄さんのたどたどしい敬語可愛い。

「ふふふ、何となくね。もしわからない事があったらまた家にいらっしゃい、今度は弟さんも一緒に」

「ども」

頭だけをペコッと下げた挨拶に老婦人は笑う。
まるで孫に接するような優しい態度に兄さんの警戒心が若干薄まっている事がわかる。

俺に対してより距離感は遠いけれど、警戒は薄い。
1対1の引き分け。

(俺にはまだ時間があるし、長期戦でゆっくり兄さんに馴染んでもらう予定だから焦る必要はない)

そう自分に言い聞かせながら握った手の爪が肌に食い込む痛みだけが妙にクリアだった。



別段別れて帰る理由もないので兄さんの横に並んで歩く。
傍から見て、昼日中に髪をきちんと整えたスーツ姿の男と、ジャージ姿のぼさぼさ頭な男が歩く図というのがどう見えるのかは謎だが。

「あの人知り合い?」

聞いて良いものなのか多少悩むが、聞かないのもおかしい気がして聞いてしまう。
なによりも気になってしょうがない。

「あー……、知りあいなのかな? 少し前、コンビニの帰り、あの家の庭を見てたんだ」

「庭? ああ、確かに綺麗に整った庭だったね」

俺の視線の大半は兄さんに注がれていたので全体までちゃんとは見ていないが、記憶の片隅にある庭の様子を思い出せば、丁寧に手入れされ派手ではないものの見る者の目を和ませる庭だった。
実家では専用の庭師が手入れしていたのでわかる事だが、素人の作った素朴な庭。

だけど植物1つ1つにかけられた愛情は段違いだ。

「兄さんって植物好きだっけ」

もしそうならば重要情報だ。

花束ならプレゼントにしてもいいし、鉢植えなら中に盗聴器、あ、でも気づかれたら嫌われてしまうだろうか?
最近の盗聴器は小型だし、鉢植えも2段構造になっている特製のモノを選べば壊れる心配もなくていいと思ったのだが……。

「俺がそんなの好きそうに見えるか? 嫌いだ、嫌い。植物なんて喋らないし自己主張もしない、猫の方が絶対可愛い」

「そうなんだ」

内心で少しだけガッカリしながらも、可愛らしい兄さんに笑んでしまう。
植物とは全く違うのに、大好きな猫を引き合いに出してしまう所なんて最高にキュートだ。

「もうそろそろフツコの命日だから、ちっと気になっただけだ」

「……あ」

あの家政婦の、……兄さんの大事な人の命日。
自分と彼女はあまり関係が深くないので失念していたけれど、兄さんにとっては忘れたくても忘れられない日なのだろう。

まだ癒えていないだろう傷の事を思うと言葉が出ない。

大丈夫だよ
頑張って
その気持ちわかるよ

他の誰にでも言える言葉がなぜか兄さんにだけは言えなかった。
例え俺が何を言っても薄っぺらで、その痛みの僅かすら理解出来ていないのだから。

「でもな、俺、思い出したんだわ」

「え?」

兄さんは不意に俺の方を向き返ったかと思うと、口の端をニヒルにあげて軽く笑う。
兄さんの、悪い表情にゾクリとした。

「フツコも花嫌いだった」

「珍しいね、女性なのに花が嫌いって」

「『そのまま咲いていれば綺麗なのに、わざわざ花束にして命を縮めるなんて可哀想です』だったかな、あと花粉症」

「そ、それは」

確かにそれに合致する花粉症の人に花束は嫌がらせ以外の何物でもない。
時期になると辛そうな知り合いも要るし、きっと本人には大問題だったのだろう。

「ま、墓参りぐらい行ってやんねぇと夢見が悪いし、そのうち行ってくる」

「そうだね、きっと喜ぶよ」

今もなお兄さんの中に色濃く存在を残す女性。
妬ましくない訳ではないけれど、それ以上に強く感謝していた。

(貴女が守ってくれたお陰で兄さんがここにいてくれる)

今はまだ越えられない。
死という強烈な記憶を塗り替えるほど、長い時間と強い力を俺はまだ持っていないから。

だけど、

「……お前も行くか?」

「いいの?」

「賑やかなの好きだったし、……甘い物も好きだったから」

(お土産代要因?)

いまはまだその立場でいい。
でもいつかその笑顔の、感情の、視線のすべてを自分に向けさせたい。

「備えたら持ち帰らないといけないし、兄さんとフツコさんの好きなモノにしようか」

「あれって持ち帰るのか」

「え゛、じゃあ今まで……?」

「放置」

すがすがしい程駄目な答え。

その常識の無さや迷惑をかけられる事すら独り占め出来て幸せだと思ってしまう。
存在すべてが俺をとらえて離さない。

兄さんの優しく、甘い糸。
捕えられているはもしかして俺の方なのかもしれない。


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あきゅろす。
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