存在と無存在のハザマ イチゴ 春の陽気が暖かい。日向にいると、暑いくらいだ。裏山に巣を作っている春告鳥が、近くの小枝まで飛んできては、かわいらしい声でうたっている。 僕は、裏口のそばの地面に座り込んで、古い自転車を磨いている。パンクしたまま壁に立てかけてあるのが、気になっていた。誰が乗るんだろう。庭師の源さんかな。いつも、酒を飲んで赤ら顔で庭をうろついているが、松の手入れが見事だ。枝先が線画のように入り組んで伸びているのを見れば、僕にだって、その腕の良さがわかる。それとも、大工の……。 屋敷の使用人の顔をいくつか思い浮かべる。本当に、この家には、いろんな人が出入りしている。キヨさんが言うには、使用人というよりは、ほとんどが居候だそうだ。まあ、僕もその一人だけど。だから、少しは、役に立ちたくて、今もこうやって、自転車の修理を自ら買って出たりしている。 タイヤからチューブを引っぱり出していると、開け放った台所の窓から、声が聞こえてきた。 「腹減った。何か食うものない? お、昼飯、てんぷらなの? うまそー」 秀麿が、学校から、帰ってきたところらしい。こんな時間に帰ってくるなんて、珍しい。今日は午前で終わりなのかな。 自然と、チューブを手繰る動きが速くなる。今日の午後は僕も休みだ。一緒に過ごせるといいな。 「こらッ、坊ちゃま、何です?行儀ば悪い」 鋭いキヨさんの声が響いてくる。どうやら、ヒデのやつ、摘み食いして怒られてるらしい。 「もうすぐ、支度ができますゆえ、そこのイチゴでも、食べながら待っててくだされ」 「イチゴじゃ、物足りねー」 「あ、だめですじゃ。先に手を洗いなされ。ほら、きちんと手を拭いてくださらねば、床に水が垂れますじゃ。こらッ、ちゃんと小皿に取って食べなされ。行儀ば悪い。ああ、もう、そんなに食べたら、昼ご飯が入らなくなりますじゃ……」 キヨさんにいろいろ言われるたびに、うん、とか、あー、とか、面倒くさそうに返事を返している。 ……小学生か。 いつも偉そうな秀麿が、キヨさんには怒られてばかりなのが、何とも可笑しい。 「衣、あまったら、アレ作って」 「わかっておりますじゃ。エビが揚がったら、粉と砂糖をたっぷり足して、ゲンコツ、揚げてあげますじゃ」 ゲンコツ……? 何だろうな。 それにしても、キヨさんには甘えん坊の秀麿が、可笑しくてたまらない。きっと、自分では甘えていることにすら、全く気付いていない。 僕は、作業を進めながら、二人の会話を盗み聞くのを楽しんでいた。 「あれ、お前、何やってんの?」 いつの間にか、秀麿が窓から顔を出している。イチゴを口いっぱいに頬張っているのが、どことなくガキっぽい。その後ろから、キヨさんの声がする。 「敏さんは、自転車を直してくださってるんですじゃ。坊ちゃまも、少しは、敏さんを見習って、家の手伝いをせねば、嫁の来手もありませぬ」 「るせーな、もう」 秀麿は、キヨさんが煩くなったのか、サンダルをはいて、外に出てきた。イチゴの皿を左手に持ち、右手で、つぎつぎに口に放り込んでいく。 黙って頬張りながら、僕の作業をじっと観察している。 「……な、何?」 「お前、意外と器用だな」 「工業科だからね、実習で、ペンチとか使いなれてるし」 「ふうん」 興味無さそうな声を出すものの、イチゴを1個だけ残したまま、なかなか、家に入ろうとしない。じろじろとこっちを見ている。秀麿だって、パンクを直すくらいはできるだろうに、何が珍しいのだろう。 あー、もー、やめてくれないかな、そんなに見るの。気が散って仕方ない。 手早く済まそう。 水を張ったバケツの中で、チューブの穴の空いた所を探し出し、水から出して拭きあげると、テープで穴を塞ぐ。ブレーキの効きも悪くなっているから、ついでに、線を引っ張って、留め治す。 慣れた手つきで、ペンチをくるくると動かす。 自転車を起こし、油を射しながら、最後の点検をしていると、秀麿が、すぐそばに近寄ってきた。 「お前も食う?」 一個だけ残ったイチゴの皿を差し出してくる。 「いいよ、手が汚れてるし」 「ほら」 秀麿は、親切に、イチゴを手に摘まんで、僕の口元に差し出してきた。 親切すぎて気持ちが悪いんですけど……。 春の陽気が暑すぎたのか、秀麿は、制服のネクタイを緩めて、一番上のボタンをはずしている。いつもきちんと身なりを整えているだけに、だらしなさが、妙にどきっとさせる。 「うまいぜ?」 赤くつぶらな実。いかにも高そうな大粒のイチゴ。 「……あ、うん、ありがとう」 僕は、押し付けられてくるイチゴに、仕方なく、かじりついた。 大きな実は、一口では入らない。かじったイチゴを、秀麿が、まだ差し出してくるので、また、かじりつく。 三口ほどかけて、イチゴを頬張る。 甘い。 甘いけど、こんな風に食べさせてもらったって、何か変な感じがして、よく味わえないよ……。 イチゴの可憐さと、秀麿から匂い立つ男っぽさが、あまりに不似合で、妙にドキドキしてしまう。 口の中に広がる甘酸っぱい塊を、やっと飲み込むと、目の前に秀麿の顔があった。 な、何? 秀麿は、こともあろうか、僕の唇の端をペロッと舐めてきた。 なっ……!? 「汁が垂れてる」 「はッ?」 「お前、やっぱ、不器用だな」 何だよ、それ。僕をからかいたいだけだったのか? ヒデが、食べさせてくるからだろ。 焦ってどぎまぎする僕の耳元に、秀麿が口を寄せる。 「お前がペンチとか回してるの、何か、エロい。後で俺の部屋に来い」 はぁぁぁッ!? 秀麿は、とんでもないことを言い残すと、さっさと、家の中に入っていった。 そんな目で、僕の作業、見てたの? 立ち尽くす、僕の耳元に、小鳥のさえずりと、中に入った秀麿の声が届いてくる。 「お、ゲンコツ、うまそー。一つだけ食っていい?」 「だめですじゃ、おやつは、ご飯の後ですじゃ」 ……ゲンコツって、何だろな、揚げ菓子か何かかな? 僕のお腹も、ぐぅと鳴る。 春の日差しが暖かい平和な午後だった。 後で、秀麿の部屋に行った僕が、彼に滅茶苦茶にされたことを除けば……の話だけど。 [*前へ][次へ#] [戻る] |