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存在と無存在のハザマ

薄闇の窓の外、雪が舞っている。この季節に珍しい。

木枠のガラス窓をこじ開けると、ひとひらの雪が室内に舞い込んだ。

よく見ると、散り始めた桜の花びらだった。室内の熱気と、初春の風が入れ替わる。

桜が散る……。

彼よりも一足先にシャワー室から出た僕の濡れた髪に、舞い込んだ花びらが張り付く。

庭には数本の桜の木がある。

桜が散る……。

ゆるりゆるりと、散っていく。

散りゆく桜に、恋情が重なり、胸に突き刺す痛みがある。

桜が散り終わる頃、この恋も終わる。

シャワーの音が止み、秀麿がバスタオルを肩に掛けて出てきた。髪を拭いている彼の背が、窓ガラスに映る。

この恋は、僕だけの恋なのか。あるいは、僕たちの恋なのか。

行かないでほしい。

気が緩めば、途端に口から出てしまいそうになる言葉。だが、言えない。桜に、散るな、とは言えないように。

いつか、秀麿には、恋人と呼べる存在が出来るだろう。秀麿のまだ見ぬ恋人を思えば、僕の心にも、不思議な温もりが満ちる。秀麿を幸せにしてくれるであろう、存在。きっと、秀麿に見合う素敵な女性……。

髪の長さは……、と、まだ見ぬ女性の姿を思い浮かべようとしてみて、しかし、急に、胸が締め付けられた。温もりに、黒いものが混じり始める。具体的に想像しようとすると、秀麿を得るであろう存在に対して、えも言われぬ感情がこみ上げ、我ながら驚いた。

もしかして、これは嫉妬なのか、だとしたら、僕はまるきり……馬鹿だ。

誰からも見捨てられてきた僕は、嫉妬とは無縁だった。何も与えられない僕は、誰かと何かを取り合って争うこともなかった。僕は、秀麿に多くのものを与えられたが、秀麿は、嫉妬さえ、僕に与え、そして、去っていくのか。

初めて味わう感情は、抑える方法もわからないままに、どす黒く、膨らんでいく。

嫉妬なんていらない、ただ愛するだけでいいのに。

半ば自嘲し、半ばやけ気味に、秀麿のそばに行くと、肩からバスタオルを乱暴にはぎ取った。まだ何も衣服を身につけていない彼は、どこかを隠すこともなく、僕に顔を向ける。

「何?」

「ヒデを、見たい」

言ってしまってから、急にとても恥ずかしくなる。一体、何を言い出すんだ、僕は。

秀麿は、意外そうな顔をして、そして、ニヤニヤと笑った。

「別にいいけど……?」

体を僕の正面に向けた。

彼は裸なのに、貴族のように、堂々と立っている。自分の肉体の美しさを、知るからではない。ただ、肉体の美醜など、彼には無意味なのだ。だから、たとえそれがどのようなものであれ、恥じることも誇示することもなく、ただ、まっすぐに立っているだけ。

ヒデ……。

今、ヒデは僕のもの。僕の想いを残したい、時空を超えてもなお、消えない想いの痕跡を。

立ったままの秀麿の肩に、胸に、腹に、口づけを落としていく。

意外にも、秀麿は、僕の愛撫を黙って受け入れてくれていた。

開けたままの窓から、春風が、桜の花びらを室内に、ちらちらと、迷いこませる。

散らないで……。

散りゆく花びらに胸の中で懇願する。

秀麿もまた、桜の花びらに気付き、ひらひら舞うそれを目で追っている。

彼の肌には、まだ水滴が残っている。水滴を舐めとりながら、全身に口づけを落としていく。

秀麿が、僕に愛撫を許すものだから、つい甘えが抑えきれなくなった。言ってはならない言葉が、止めようもなく唇からこぼれてしまう。

「ヒデに、出会いたくなかった。出会わなければよかった。どうして出会ってしまったんだろう……」

酷い科白だ。身も蓋もない科白だ。

会いたくなかった。こんなに苦しいなら。

好きという感情など、知るのではなかった。好きという感情が、こんなにも苦しいものならば。

秀麿は、僕の科白を聞き逃してはくれなかった。

僕をぐいと、押しやると、無言で見下ろした。その表情からは何も読み取れない。

秀麿の目に闇が広がっている。闇は深くて吸い込まれそうだ。

見続けるのが怖くなって、目を反らした。その視界の先、夜の窓の外に、花びらが狂おしく舞っていた。

桜よ、散らないで……。

冬のままでいい、春などいらない。

「咲かなければいいのに。どうせ、散ってしまうなら」

窓の外の桜の木に向かって、そう言ってみた。

「本当にそう思うか?」

僕の内心を知ってか知らないでか、その声音は低かった。

そう思うわけない。思うわけなんかないだろ。

桜が咲かないほうがいいなんて、思うわけがない。

――ヒデに、会わなければよかったなんて、思うわけがない。

だけど――

秀麿は、僕に背を向けると、下着に手を伸ばした。

僕は、咄嗟に秀麿の背中に追いすがり、強引に前を向かせて、跪いた。秀麿のものを口に含む。

まだ、足りないわけじゃない。まだ、満たされていないわけじゃない。ただ、まだ離れたくない。

目を閉じても、頭の中で、桜が舞っている。

春の気配が、僕をおかしくさせている。

秀麿もまた、珍しく優しい風情で、僕の愛撫を、黙って受けている。やがて、膝をつく僕を立ちあがらせた。今しがたの行為のせいで、乱れたままのベッドに、再び連れていくと、着込んだばかりの僕の衣服を無言で剥ぎ取っていく。





桜の花びらの舞う中、僕は、もう一度、秀麿を抱きしめた。愛しい人を抱きしめた。



彼が僕の中に入ってきて、彼以外の存在は、全部なくなる。僕が知覚できるのは、彼だけになる。



彼だけで僕の世界が満たされる瞬間。



僕は、彼をぎゅっと抱きしめて、与えられたものを受け止める。




愛の極限に辿り着く瞬間。




その瞬間は。



いずれ来る喪失の哀しみと引きかえに得たもの。




愛する喜びは、愛を失う哀しみを道連れにやってくる。人は愛する人と永遠に一緒にはいられない。いずれ、別れはくる。




「始めがあれば終わりがある。得たものは、失われる。生まれたものは、死ぬ。散ることを哀しむより、咲いたことを喜べ。俺はたとえ明日……」


僕を見下ろす秀麿の目の中の闇が、ひときわ深くなる。

怖くなって、僕は、彼の両頬に手を伸ばして、唇を寄せた。ぞっとするような冷たい唇に、舌を添わせて温める。唇が離れると、彼は続けた。

「たとえ明日死ぬとしても、死ぬことを嘆くより、生まれてきたことに感謝しながら死ぬ」

一枚の花びらが、秀麿の肩に落ちてきた。

僕は、摘みあげて翳してみせた。

別れを哀しむのではなくて、出会いをただ喜んで……。

紡錘形の花びらを、見つめる。

「涙の形をしている……。散る哀しみの涙じゃないんだね。咲いた喜びの涙なんだね」

秀麿も、小さな花びらに、束の間、目を凝らした。



再び、僕に向かって近づいてくる闇を湛えた目。もう一度、唇が重なる。




彼の漆黒の目に広がるものは、よく見れば、闇ではなかった。



澄み切った空の色だった。











宇宙に続く空の色だった―――






























20100223
for E

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あきゅろす。
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