龍のシカバネ、それに月
2
窓から女の声が聞こえる。
保村桜子だ。
裸の肩にガウンをかけて窓辺へ向かう。
窓を数センチ開くと、髪を1つに束ねた桜子が、闇に潜んでいた。
暗闇に、赤い眼光だけが忙しげに動く。
桜子ほど色名龍らしい龍を、私は見たことがない。
「北の影どもが動いているわ」
「……わかった。ありがとう」
南龍先の頭領の娘でありながら私に情報をくれるのは、私にというよりも月哉に、匣姫に従いているつもりだからなのだろう。
保村もまた、脛に傷を持つ身だ。
これ以上匣宮に睨まれたくはないはずだ。
コマネズミのように動き回る桜子を自力で封じることもできず、頭領の義妹であるという立場から暴挙に出るわけにもいかず。
大変な妹を持つ女を妻にしたと、今ごろは朱李も辟易しているかもしれない。
しかし守る人ができた今の私にはありがたい存在でもあった。
桜子に言われて遠視すると、確かに影時のあやつる影が見える。
「西の警護は万全だ。桜子は心配しなくても良い。南に帰りなさい。影時が一番狙いをつけてくるのはおそらく、南でしょう」
「世の中に絶対などということはない。確かに影時は南を恨んでいるでしょうけど……彼が恨んでいるのは、もっと大きな……」
闇に膝をつき、くぐもった声で喋る桜子の言葉が聞き取りにくい。
ああ、とか、うん、とか、適当な相槌を打って桜子を去らせた私は、やはり少し浮かれていたのかもしれない。
幼い時からの思い人を、名実ともに伴侶にしたことを。
「雪乃さま! これは何という意味ですか?」
利発な子供。
林杯爾(はいじ)は、私が空き時間に始めた、小規模の子供教室に通う子供だった。
まだ幼い、小さな体には好奇心をいっぱいに蓄えていて、羨ましいほどだった。
知るということが楽しい。
そんな頃が、自分にもあったのだろうかと。
杯爾の目線に合わせて腰を落とし、彼が持ってきた本の説明をしてやる。
嬉しそうに何度も頷いて、ちょこんとお辞儀をすると、ようやく納得して帰途についていくのだった。
「あの子は、誰の子だ?」
そばに控えていた龍に問うと「えっ」と驚いた後、しどろもどろになる。
どうやら名のある龍の子ではないらしい。
無名の出自か、と勝手に納得する。
だが、あの幼子には力が眠っているように思える。
以来、なにくれとなく目をかけて育てた。
杯爾は私の期待に応えてくれる逸材だと思わせる片鱗を、次々に見せてくれた。
その成長は面白いほどに。
側近には幼い杯爾をそばに置くことを憂慮する者もあったが、そんなことは関係なかった。
才の見える者を上へ導き、ひいてはその者が西を導く者になる。
次代を育てるのに血筋は関係ない。
まして、年の若さなど。
やがて、あちらこちらに火の手が上がるようになった。
小競り合いから始まった一族同士の争いを、それぞれの頭領が抑えそこなったのも、機会を逃したと言うべきだ。
とにかく、北の仕掛ける攻撃への三龍の対応が、すべて後手に回ってしまっていた。
「雪乃……あの、」
振り返ると、心配そうに目の光を沈ませた月哉が立っていた。
「どうしました? 恐ろしいですか?」
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