RAPTORS 9 暗闇の中から声がする。 誰の声だったか。よく聞き慣れた… 董凱?朋蔓?それとも旦毘…否、そんなに若い声ではない。 いや、違う。自分は東軍に居るんじゃない。 とっくに抜けて来て、今は天の軍に居るのではないか。 それなら、この声は―― 縷紅は闇から抜け出した。瞼を開けた、それだけの事なのだが。 ひどく身体中が怠い。そして痛い。 その痛みで漸く思い出す。 お使いの帰途に薬を吸わされて殴られた事。 ぼんやりしていた視界が徐々にはっきりする。 広いとは言えない自室。今寝ている寝台と机しかない。 その机に向き合う背中があった。 師の背中だ。 その話し相手は窓枠に腰掛けていた。 弓の師匠、楜梛。 はっと身を起こす。二人を前に寝たままではいけない。 「おう」 楜梛が気付き、緇宗に言った。 「漸くお目覚めだ」 「そりゃ良かった」 振り向きもせず緇宗は応じる。 ひっきり無しに筆を動かしている。 「あの…えっと…」 何故、自分の狭い部屋に二人が居るのか?という疑問はさておき。 「ご迷惑を、おかけしました…すみません」 二人に詫びる。 師は元より、あの場を救ってくれたのは間違いなく楜梛だ。 「お前が謝る事無いさ、縷紅。無事で良かったってヤツだ」 楜梛は人の良い笑みを浮かべてそう言ってくれた。 緇宗は。 「通過儀礼にゃ調度良かった…が、日を選んで欲しかったな。お陰で書類が増えちまったぞ」 「はぁ…」 机の上には厚さが測れる程の紙束が山をいくつも作っている。 これを夜が明けるまでに片付けねばならない…らしい。 不始末の報告書でも書かねばならなくなったのかと考えを巡らせていると、頭の中を読んだ様に楜梛が教えてくれた。 「除名届けだ。奴が勝手に考えてやってる事だからお前は気にするな」 「除名…ですか…!?」 「お前のじゃねぇから安心しろ」 ぶっきらぼうに背中が言う。 「お前を襲った犯人共の除名だよ」 「でも、誰がやったかなんて…」 自分でも分からない、と言おうとして。 あっと小さく声を上げた。 楜梛は見ていた。誰がやったのかも。 だから今ここに居るのかと納得する。 「しかし除名で済ませるってな軽過ぎると思うがねぇ」 楜梛が半笑いで言う。 「軽いんですか?」 「だってお前、普通に罪に問われてもおかしくないだろ?あんな奴ら野放しにして良いモンかねぇ。俺はブタ箱入れるくらいしても良いと思うんだが」 縷紅は慌てて首を振った。 「そんな、私は除名でもそこまでする事は無いと思います。ただ少し…私も生意気が過ぎたみたいですし…」 「逆恨みでしか無いだろ。手段は卑怯極まりないし」 「いえ、油断してた私も悪いですから…」 「だから除名で調度良いだろ」 二人の論議に終止符を打つ様に緇宗が殊更大声で言って、書類の束を縷紅に渡した。 「お前、起きてんなら手伝え」 一応、差し出された物は受け取る。 「何をお手伝いすれば…?」 「読んで間違いが無いか調べろ」 間違いと言われても、それは大体が報告書の類だ。 入ったばかりの縷紅に正解も間違いも分かろう筈が無い。 が、横から楜梛がにやにやと笑いながら助言を挟んだ。 「難しく考えなくても、書き間違いの類だよ。コイツ学が無いから字があべこべなんだ」 「あぁ!」 縷紅が思わず納得して声を上げれば、見事に頭をはたかれた。 「あぁ!じゃねぇよ、あぁ!じゃ!!てめぇ俺の事そんなに馬鹿だと思っていやがったか」 「ち、違いますっ!!馬鹿なんて思ってないけど、字はあんまり書けないんだな、って…」 「お前それ同じだろうが!!」 「書けないんじゃないぞ縷紅。餓鬼の頃から字が汚過ぎて本人も読めなかったんだ。だから書かなくなった」 「あぁ〜」 「あぁ〜じゃねぇよ!!あぁ〜じゃ…って、同じ事言わせんなお前ら!!」 決して縷紅は師匠を弄って遊んでいる訳ではない。 天然である。あくまで。 「でも、この字は読めますよ。自信持って下さい」 …天然である。 にこにこと悪気の無い、子供だからこそ可能な純真な笑顔で言われては、頭も叩けない緇宗。 「そうだな。自信持ってコツコツ仕事してくれればこんな事にはならないよな」 楜梛が肩を震わせながら縷紅に相槌を打つ。 そうですねぇとにこにこな縷紅。 緇宗は…気が長い方ではない。 「…うおっ!?」 楜梛は飛んできた文鎮をすれすれの所で避けた。 文鎮は開け放している窓から飛んで行き、闇の中で悲惨な音を発てて落下した。 「あっぶねぇな!!当たって洒落になる物を投げろよ!?」 「うるっせぇえ!!お前の用は終わったんだ!さっさと帰りやがれ邪魔者っ!!縷紅に悪影響を及ぼすな!!」 しっしっと片手で追い払う。 そこはそれ、タダで帰ってやる様な相棒ではない。 「全く、どっちが悪影響だろうなぁ縷紅?ま、目覚めるまで心配でオロオロして、仕事をこっちに持って来ちまうくらいだから、子煩悩は認めてやるがな」 「…え」 まさか、そうは見えないと言わんばかりに縷紅が目を向ければ。 硯が飛んだ。 「だぁから投げるモンは選べっての」 硯は真っ直ぐ窓の外へ。 その軌道上に居た、当たるべき人物の姿は、影も形も消えていた。 笑い声と捨て台詞を残して。 静けさを通り越して、凍結した沈黙が訪れる。 目を見張ったまま縷紅は、硯の消えた窓の外を凝視していた。 この師匠、下手に怒らせない方が良い。 これがこの一ヶ月で学んだ中で一番重要且つ実用的で命懸けな事柄となった。 「ボサッとしてねぇで読みやがれ」 低い声にびくっと肩を震わせて、これまた震える返事をし、慌てて書類に目を落とす。 「硯取ってくる」 「あ、はい」 わざわざ取りに行くなら投げなきゃ良いのに…と、思わなくもない縷紅。 緇宗が出て、やっと落ち着いて文字を追い始める。 しかし、ただ読んでいたのは最初の数行だけだった。 その内容に、だんだんと我を忘れ、一枚二枚と読み進める。 緇宗が帰ってきた事も気付かなかった。 「そんな…」 もう何枚読んだだろう。 読めば読むだけ、 死者が、増えてゆく。 「この軍は…こんな、酷い事を…」 「軍じゃねぇ。俺の仕事だ」 思わず呟いた言葉に返事が返ってきた事に、まず縷紅は驚いた。 そしてその意味に息を呑む。 「軍ではなく…個人でやってらっしゃる…という事ですか…!?」 「違う。軍に下された命令だが、他の奴らに任せる訳にはいかない…そういう事だ」 「命令って…一体誰の…」 「王だよ」 きっぱりと緇宗は告げた。 縷紅は目を見開き、言葉を呑んで、改めて書類を読む。 地の者と密通していたという疑いで殺された者。 宮仕えを断って殺された娘と家族。 王を睨んだという罪で殺された子供―― 「理不尽だろう?だがこれがこの国の実態だ」 「何故ですか…。殺す必要など…」 「気にいらなければ殺す。これがあの男のやり方だからだ。下司な男だよ…自分の民は湧いて出て来ると思っていやがる」 王の悪口をおおっぴらに言う師匠に、縷紅は心配そうな目を向けた。 「ここにはお前しか居ない。大丈夫だ。…ま、誰にも言うなよ」 縷紅の視線の意を汲んで、緇宗は言う。 「お前をさっさと弟子にして手元に置いたのも、あの男の道具にさせる訳にはいかなかったからだ。従順なガキなら使い易いだろう?」 「しかし…私は子供を殺したり出来ません…」 「出来ないは通じねぇよ。何たって王の命令だからな、やるしかねぇんだ。で、壊れるまで使われる」 「…壊れる…?」 「良心が壊れ…自分自身が壊れるまで」 「……」 「お前は頭も良いし、良心の塊みたいなヤツだ。だから“正しい事をする為に軍に来た”ってのは嘘じゃないんだろう。だがな、ここには正義なんざ無い。有るのはそこに書かれた様な、醜い真実だけだ」 顎で縷紅の持つ書類を指し示す。 「だが、俺はその真実から目を逸らす為にここから逃げ出す事は認めねぇからな縷紅。正義を貫きたいと思うなら、ここに留まれ。で、軍の全指揮を握る様になれ。俺の後を継いでな」 「それが…正義ですか…?」 「権力を手に入れなきゃ話にならん。それで力をどう使うか、だ」 縷紅は頷いた。 王の様な間違った力の使い方をしてはならない。まずはそれを是正出来る様にならなければ。 「その為には、いつかお前もこんなくだらねぇ仕事をしなければならんだろうが…今はまだ早い。あの男の毒に耐えられる様になるまでは、俺の下に居ろ」 確かに、今こんな事をしたら、罪の意識で壊れてしまいそうだ。 それとも、王の命令である事に絶対的な正義と誇りを感じて、罪であるとは微塵も考えないのだろうか―― いずれにせよ、人としてやっていけない気がする。 「ま、お前が出世するより先に、俺は何もかもぶち壊すかも知れねぇがな」 「…え?」 緇宗は、片頬でにやりと笑った。 「何でも無い。聞き流せ」 その時、縷紅は、 夜の闇より遥かに昏い、緇宗の瞳の奥底を垣間見た―― そんな気がした。 [*前へ][次へ#] [戻る] |