RAPTORS
8
あれから旦毘は雨の街を彷迷った。
緑葉を看せられる医師を探していたのだ。
緑葉には茘枝がついて夜通し看病している。
出血が多く、下手に動かせない。
ひとまず雨宿りも兼ねて、空き家を見つけ身を潜めている。
旦毘は濡れ鼠になりながら、街中の家という家の戸を叩いて回った。
雨は一段と激しくなり、旦毘の呼び声を掻き消す。
何時間も、闇と雨垂れの中を歩き回った。
しかし――医者が見つかるどころか、旦毘がどの家の戸を叩いても家人が出ない。
応じる事も無い。雨音の向こうに息を潜めている気配がするばかりで。
確かに夜中に急な押し掛けが有れば警戒するかも知れないが――しかし行けど行けど、どの家も反応は一緒だった。
何かが――異常だ。
張り詰めた様な警戒心が、街を満たしている。
光を感じて旦毘は空を仰いだ。
日が昇っている。雨も上がり、夜が明けたのだ。
千切れた黒雲の合間から、朝焼けが雨上がりの街を染める。
「……」
時間だけが過ぎた。
無力感に襲われて、ただ橙の空をぼんやり眺める。
また、俺は見殺しにするのか――
縷紅だけではなく、緑葉までも。
否、縷紅の事が有るから、ここまで必死になって緑葉を救おうとしている。
勝手な想いだ。
俺が本当に救いたかったのは、縷紅なんだ――
弟なのに。誰が何と言おうと、俺の弟なのだ。それなのに。
何故、誰も応じてくれない?
何故、皆見殺しにする?
何故――
腹の底が熱くなる。
怒り。
旦毘は誰も居ない往来の真ん中で、水溜りを蹴って怒鳴った。
「てめぇらそれでも人かよ!?なんでそんなに簡単に人を見殺しにするんだよ!?だんまりしてりゃ良いってモンじゃねぇぞ畜生ッ――!!」
物音一つ返らない。
自身の声だけが、家々に反響する。
虚しくなって、旦毘は踵を返した。
危険だが、緑葉は地に連れて帰るしかない。
帰り道は長かった。それだけ走り回ったのだ。
「お帰りなさい」
やっとの事で帰る。茘枝が迎えてくれた。
彼女の向こうに寝かされている緑葉に目をやる。
傷の所為で出た熱が下がらないのだと茘枝は言った。
「医者は…見付からなかった」
訊かれる前に旦毘は言った。
「どの家もぴったり戸を閉めて、誰も出て来ねぇ。盗賊でも警戒してるみたいに」
荒々しく座り込む。また怒りが込み上げてきた。
「何だよ、人が一命助けようと走り回ってんのに…!この国の奴らは!!」
重い沈黙が流れた。
緑葉の苦しい呼吸だけが耳に入る。
何とかしてやりたい。それなのに。
どうしてこんなにも、肝心な時に自分は無力なのか――
「…さ」
はっと茘枝が振り返った。
緑葉が何か言っている。
だが目は閉じられたまま。
譫言か。
「緑葉…?」
茘枝が枕元に戻って耳を寄せた。
「何て?」
旦毘が訊く。
茘枝はすぐには答えず、なおも聞き取ろうと耳を傾けてから。
身を起こし、少し悲しげに答えた。
「名前を呼んでるみたい。姶良と、縷紅と、隼の…」
「……」
唇を噛み、じっと足元を見詰めて。
旦毘は立ち上がった。
「日も昇った。少しは警戒も解けるかも知れねぇ」
茘枝は頷く。
旦毘は出ようとして――足を止めた。
「…何だ?」
茘枝も同じ事を問おうとして、口を閉ざした。
誰に問うでもない。ただ、訊かずには居れなかった。
足音。人の声。
一人や二人ではない。かなりの人数だ。
こちらに近付いてくる。
旦毘は外に出て、目を見張った。
人。人。人。
通り――しかもここは街で一番広い通りだ――に人がぎっしりと並び、波となって押し寄せて来る。
「何なんだよ一体…!?」
背後に別の気配を感じて振り返ると、兵がこちらに近付いて来ていた。
身構えそうになるが、敵意は見られない。
どうしたものかと思っていると、声を掛けてきた。
「既に厳戒態勢は解除された。大広場で新たな国王の戴冠式を行う。急ぎなさい」
「…は…?」
ぽかん、と兵の顔を見る。
言っている事が分からない。
「とにかく大広場に行きなさい」
説明している暇は無いと言わんばかりに、それだけ言い残して兵は去って行った。
旦毘は再び中へ入る。
人の波が通過して行く。それを避ける為だ。
「コイツら皆その大広場ってのに向かってるのか…!?」
「そうみたいね…。でも、一体新王って誰…?」
「厳戒態勢っつってたな。只事じゃねぇ訳だ」
その為に一晩中走り回る事になったのかと、そこには納得したが。
こんな夜に限って、一体何が起こったのか。
「行く…っきゃねぇんだな…」
人の群れが漸く疎らになってきた。
小走りに去る人々の背を、目で追う。
「地にもこの事を早く知らせなきゃ。正確な情報を掴んでね」
「全くだ…」
今、兵の言った事が事実なら、戦況は大きく変わる。
旦毘が人々を追うべく、壁から背を浮かせた。
「…俺も…連れて行って下さい…」
細い声。
旦毘も茘枝も振り返った。
緑葉が、半身を起こそうと、手をついていた。
「馬っ鹿!まだ動くな!!」
旦毘の怒鳴り声と同時に、込められていた力が抜けた。
「お願いします…」
「連れて行くのは良いけど…君の状態はかなり危ないのよ?命懸けで見たい事?」
茘枝の宥める様な問いに、緑葉は僅かな動きで頷いた。
「何を、そこまでして…」
「俺も…天の…民、だから」
切れ切れの理由。
しかし旦毘は反対するそれ以上の言葉を飲み込んだ。
忘れかけていた。緑葉が天の民である事。
だから敵だと言う訳ではない。
誰にだって、祖国に誇りや想いはある筈だ。
だから、天という国のこの一大事を見届けたいと思うのは、切実な願いだろう。
旦毘は緑葉に歩み寄った。
「背負ってやる。少し動けるか?」
緑葉は茘枝の手を借りて旦毘に負われ、人々の集まる大広場へ向かった。
凄い人の数だった。
広場中に人がぎっしり入っている。
その奥に城壁があり、王らしい人物が立っていた。
「あれは…?」
遠くて顔が見えない。
懸命に目を凝らす。
城壁の上の人物が、手に持つ何か丸い物を掲げた。
「この通り愚王は私が討った」
手に持っているのは――首だ。
そしてその声は…
「まさか…」
茘枝を見る。
彼女も緊張した面持ちで旦毘を見、頷いた。
「これからは、この緇宗が天を、そして世界を支配する!!」
こんな事が。
この、一晩の間に。
「先ずは、前王の失策によって失った地の領土を取り戻す!!」
歓声。
皆、歓喜しているのか。
王が変わり、再び戦が始まる事に。
「もう、行きましょう」
茘枝に言われ、我に返って旦毘は頷いた。
すっかり民衆の熱気に飲み込まれていた。
先程の空き家に戻り、背負っていた緑葉を下ろす。
緑葉は――泣いていた。
「ついに王を倒したんですね…!これでやっと…戦の無い世界が来る…」
言っている事がおかしい。旦毘がそれを口にしようとして。
言葉を飲み込んだ。
緑葉の開かれた眼は、何処も見ていない。
「縷紅様も、隼も…これで、夢が叶う…良かった…!本当に良かった…姉貴も、浮かばれます…縷紅様の作る世界を、どんなに見たかったか…ああ、見せたかったな…一緒に見たかった…。でも隼は…アイツは間に合いましたよね!?あれだけ苦労したんだ、報われて当然だ…良かった…アイツは…新しい世界を見れる、いや、作る気で居るんでしょうね、隼の事だから自らやるんだろうな…良いな…」
ふぅっと、眼が、旦毘を捉えた。
「隼に伝えて下さい。俺は姉貴と待ってるけど、来るのはなるべく遅くしろって。どんなに時間が掛かっても、俺達はずっと…待っててやるから…て…」
言って、言い切って。
口元が、ふっと笑って。
緑葉は、息を引き取った。
旦毘も茘枝も、動けずに、何も言えずに、その亡骸を見詰めた。
最期だけでも――夢であっても、緑葉は、新しい世界を見ていた。
平和な世界を。
こんな理不尽な死の無い世界――
「…姉貴に…早く会えよ…」
手を伸ばして、開いたままの瞼を閉じた。
涙が一筋、流れた。
その雫が乾くまで、二人は黙ったまま見詰め――
旦毘が立ち上がった。
「せめてこの国に葬ってやろう」
茘枝が意外そうに見上げた。
「変わろうが変わるまいが…ここがコイツの国だ」
「…そうね…」
「それに俺達は早く動き出さなきゃならない。地の為にも。緑葉が最期に見た世界を、実現させなきゃいけない」
茘枝は頷き、立ち上がった。
緑葉の埋葬は、街に程近い林の中で行った。
終わると、茘枝は土饅頭の上に、そこに咲いていた花を置いた。
「…救えなかったな。結局」
呟き、茘枝に向き直った。
「あんたは一刻でも早く、地に戻ってくれ」
「あなたは…?」
その口振りは、自らは帰らないと言っている。
「縷紅を探す」
言って、歩きだす。
「アイツは生きてる。絶対、まだ。死んだなんて、死体見るまで思わねぇからな…いや、例え死体見ても信じてやらねぇ。アイツは生きてる」
「一人で探す気…!?」
旦毘は立ち止まって、頷いた。
「国の事は、頼んだぜ」
少し笑んで。
背中は、木立の中に消えた。
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