RAPTORS
9
「もう、いいの?」
陣地の光が届かない所で茘枝は待っていた。
「ええ」
簡単に答えながら、進める足は止めない。
「照れ隠しならしなくて良いのに」
「違いますって」
縷紅は笑うが、感情の隅に微かな寂しさを見た。
今から天に向かう。
自分の半生のほぼ全てを過ごしてきた場所へ。
過去の自分にけじめを付ける為に。
大きな壁に当たる為に。
正直、越えられるとは思ってない。
それでも、壁は壊さなければならない。どんな手を使ってでも。
皆の為に。
「もう戻れない、なんて考えないでよ?」
知らず知らず、後ろを振り向いていた縷紅に茘枝が笑いながら言った。
自分の視線にはっとして、慌てて前を見る。
「しかし、茘枝」
「私は何があっても貴方をここに帰す」
縷紅の言葉を遮って、茘枝は宣言した。
強い意思を持った言葉。
縷紅は言葉の続きを接げず、夜空を仰いだ。
素直に感謝せねばならないだろう。こんな自分について来てくれる事、ここまで想ってくれる事――。
今まで多くの人を裏切ってきた。
だから、信じてくれる人の有難さが身に沁みる。
「…でも、私が此処に戻る事は恐らく無いでしょうね」
「え…?」
「再びこの地を踏む時、私は今のままの私ではないと…確信しています」
「…そう?」
「緇宗と対峙する事は、大きな何かを得、同時に様々なものを…捨てる事だから」
十二歳で叩いた軍の門。
それから緇宋の元で身につけてきたもの。
強さ、非情さ、脆さ。
訓練の日々、重ねた罪、戦の炎、かけがえの無い人の記憶――
それらを断ち切り、新しい世界を見る為に、戦う。
その向こうに居る自分は、きっと、今とは違う。
「まあ、全て生きて帰れればの話ですが」
そこに辿り着ける可能性の低さを思い出し、バツが悪そうに付け加えた。
「だからそれは私の仕事…って、あれ?」
茘枝が足を止める。
縷紅も彼女の視線を辿って足を止めた。
道の先に人影がある。
「…旦毘…」
意外な所で、あまりにも見慣れた顔に出会った。
「待ってたぞ」
得物である薙刀を掲げながら、素っ気なく告げる。
「…止める気ですか?」
「そんな無駄な事はしねぇ。行くなら行けっつってんだ」
「お見送りには見えませんけど」
「見送るつもりも無ぇ。…一戦交えろ、縷紅」
「は…?」
「早く刀抜けよ」
苛立ちを隠さない表情から、真意は汲み取れない。
普段は裏表の無い人物なだけに、益々その意図は計り兼ねる。
「これは…意味のある仕合ですか?」
相手を警戒しながら柄に手をかける。
「無かったら逃げるのか?俺が闘りてぇだけだよ。…行くぞ」
刹那、振り下ろされた薙刀を、縷紅は紙一重のところで横に躱した。
薙ぎ払われた白刃を潜り、後ろに跳んで間合いを取る。
「逃げてんじゃねぇよ!」
突きに転じた刃を何とか剣で弾き、軌道を狂わせた。
この隙に間合いに入るべく踏み込む。
だが素早く立て直した薙刀が横から急襲してきた。
思わず剣で受けた部分は木製の柄の部分。
相手の得物に己の刃がめり込む感触。
「――!!」
抜く為の、一瞬の隙。
その間に、目の前には別の刃が突き付けられていた。
「…狡いですよ」
左手に薙刀、右手に刀剣を持った旦毘が、言われてニヤリと笑う。
「やったモン勝ちだろ?こういうのって」
「…それなら」
ひゅっと風を切る音。
油断も隙も無く、二つの刃がぶつかり合う。
「おまっ…不意討ちかよ!?」
「やったモン勝ちなんでしょう?」
剣と剣を挟んで笑う。
どちらからともなく離し、斬り結んでゆく。
互いに隙を突いての一撃一撃なのだが、動きを知り尽くしているかの様に、刃と刃が合わさる。
そして――二人の表情は実に楽しそうだ。
子供同士の遊びにも見える。その速度と、致命傷にもなり兼ねない武器を持っている事を除いては。
事実、二人共、心は現在に無かった。
周りにあるのは夜の闇ではなく、朱く染まる夕焼け色の広場。
日が暮れても遊び足りず、呼ばれて家に帰るまで。
そんな、いつしか消えた日常の風景の中に、二人は居た。
戦など遠く、東軍の塀の中で世界が満ち足りていた、あの頃。
旦毘が振り下ろした一撃で、全ては止まった。
「今度は卑怯も無しだぜ?」
勝ち誇った笑み。
「分かってますよ」
諦めた微笑。
「貴方には敵わない。昔から」
「当たり前だろ。俺は兄貴だもん」
「兄に花を持たせてあげるのも、弟の勤めです」
「…この負けず嫌いめ…」
勝ったのに苦い顔をしている旦毘に、縷紅は改まって訊いた。
「それで、目的は何なんですか?」
間髪入れず、答えが返ってくる。
「俺も行く」
「…え?」
「俺も天に行ってやろうって言ってんだ。この状況で嫌とは言わせねぇぞ」
刀を突き付けたまま、旦毘は言った。
「脅しですか…」
「違う、お前より強いから文句無ぇだろって事だ」
「傍目に恐喝にしか見えませんよ」
呆れた様に縷紅は言って、続けた。
「まあ、恐喝されなくても来て下さるなら歓迎します」
「ったく、素直じゃ無ぇ物言いするなぁ」
「それは二人共でしょ?」
今まで静観していた茘枝が笑いながら口を挟む。
「ほんと、素直じゃないんだから。一言で済む話なのに」
「男はそれじゃ済まねぇんだよ。な、縷紅?」
「…個人的には一言で済ませて欲しかったのですが」
苦笑で漏らされた本音に旦毘は絶句、茘枝は堪えられず笑う。
「まぁ…楽しかったですよ?」
気遣うような笑みに変えて旦毘に向ける。
「凄く、久しぶりに…楽しんだ気がします」
隣の旦毘を見ていた視線をふっと遠くして、縷紅は付け足した。
旦毘は義弟を見返す。
彼の視線の先に見えているもの――それを共有しているのは、自分だけだ。
「…たまには良いだろ?こんなのも」
縷紅は視線を戻し、微笑んで頷いた。
旦毘も頷き返し、先を見据えて言った。
「また、やろうな?今度は木刀で」
「木刀でも当たったら洒落になりませんよ」
あはは、と脳天気に笑いながら縷紅が反対する。
「ま、どうせ旦毘は寸止めしてくれるから、真剣でも良いですけどね」
「いつもいつも出来るとは限らねぇだろ」
「出来ますよ旦毘なら」
「ちょ…おま…怪我しても知らねぇぞ!?」
「大丈夫です。そんな事言いながら放っておくなんて事、貴方には出来ないって知ってますから」
現に今だって、と縷紅は微笑む。
旦毘は口ごもって、まあな、と曖昧に答えた。
月明かりは細く、闇は濃い。
しかし行く先に光がある事を、彼らは疑わない。
闇が世界を覆う度に、何度でも、日は昇った。
それを知っているから――信じているから、歩んでゆける。
「この戦いが終わったら、また」
縷紅が闇に包まれた天を見上げて、小さく呟いた。
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