RAPTORS
8
鋭い月が闇夜の天空を裂いている。
同じくらい鋭い刀身に、細くも強い光を映した。
月の光を邪魔する物は何も無い。
静寂と、暮れ行く夕闇。
磨き上げた剣。そこに映った己の眼と、不意に目が合った。
時々、我ながら戦慄が走る、赤。
正直、こんな瞬間でも無ければ、普段は忘れている。この色の事。
自分でも思うのだ。気味が悪い、と。
そして――種族の違いの事を。
この色が無ければ有り得なかった、これまでの道程の事を。
そして今は――
蒼がかった闇は、徐々に漆黒へと変わってきた。
鋭い光が、煌々と。
縷紅は天を仰ぎ見る。
今から行く場所。
今まで居た場所。
過去と未来。交差する今。
それを見上げている。
これからの為に手入れしている刃には、己の紅が映って、“あの時”を思い出させた。
――こんな世界、変えてね――
この刀で、この手で斬った人の事。
引き替えに与えられた、今。
忘れられない誓い。
――出会わなければ良かったのに――
奪わずに済んだだろうか?
重くのしかかる、自問。
過去の何かが今と違っていれば、命を奪わずに済んだ筈だ。
この色さえ、無ければ。
否、そんな考えは無駄だ。
斬りたくない、どれだけそう願っていたとしても、それは宿命だったのだろう。
そう思わねば、浮かばれない。
これまでの罪、全てが。
――逃げだろうか。
脳裏に焼き付いた赤斗の眼が、それを許さない。
赤斗だけではない。軍を裏切り、処刑した者。五年前の戦で斬った無数の者。
軍の指令で暗殺した者、この戦で斬った者――
それらの、無数の眼が。
死を目前にした絶望や、不当に命を奪われる怒りで染まった眼が。
宿命という言い訳で逃げてしまう自分を、縛り付ける。
――ならば、どうすれば…
「…否…」
すっ、と天に向ける刃。
刹那、空気を切り裂いた。
闇を断ち切るが如く。
「立ち向かうだけですね…。姶良、貴女の為に」
皆の為に。
小さく呟いて、細い光で弧を描き、刃を鞘に収める。
高く昇った繊月だけが、闇夜を照らしていた。
燭台の灯火が、心許ない光で天幕内をぼんやりと浮かび上がらせている。
その光を、こちらもぼんやりとした心許ない眼で見るともなく見る。
そして、小さな溜息。
するりと、衣擦れの音。
光の届かない闇が開いた、その音だ。
一人で暇を持て余していた隼は、天幕を覗いた顔に、訝しげに目を細めた。
「灯りが付いていたからな。…眠れねぇか?」
入ってきたのは、董凱。
「昼に十分、睡眠を取りましたので」
目も合わせず、ぶっきらぼうに告げる。
昼間、五人がこの天幕から去った後の記憶が無い。
気絶する様に眠ってしまったのだろう。
「まあ、そう固くなるなよ。余計な文体作らなくても、いつもの調子で良いんだぜ?喋るのも身体に良くないんだろ」
睨みつける眼。
董凱は気にする事無く、傍らの椅子に腰掛けた。
「…それが解っているなら放っておいてくれれば良い物を…」
何か諦めた様に呟いて、背を向けて寝転ぶ。
体を起こしておく程、気を遣う気にはなれなかった。
「いや、全くそうなんだけどな。一度君とゆっくり話してみたいと思ってたんだ。娘から山登りの間、ずっと君の事を聞かされていたからな」
「今は俺より話すべき相手が居るでしょう?今夜にも縷紅は発つって言ってるんだ…今が最後になるかも知れない」
「一人にしてやりてぇ時も有るんだよ」
肩越しの視線。
「今は…アイツにとって俺達の存在は重い様だから」
「…ふーん」
隼には解らないでもない。
修羅とならねばならぬ時、温かい存在は断ち切らねばならない。
自身にも覚えがある――天と闘う為、黒鷹の元を去ろうと決めた時。
無謀なだけだったと、今では思う。
あれさえ無ければ、姶良を――
「眠れねぇか?」
追憶を遮って、同じ問いが繰り返された。
――否、結果は同じだ――
自らが生み出した下らない問いに答えを出し、現実の董凱を睨む。
質問の意図が掴めない。
「怖いんじゃねぇのか?眠る事が」
「――」
「昼から、どうも拒んでいる様に見えてな。体力持たねぇぞ、それじゃ」
「…もう、無いも同然の体力だ」
拳を握る――手が、震える。
以前の様に、上手く力が入らない。
朝は渾身の力で鶸を殴った。あれが精一杯だった。
「根に渡り合うんだろ?その前に衰弱してくれるなと言っている。その為に、今は出来るだけ体力を保っておくんだ。どれだけ不安でもな」
「…あんたに何が解る」
にやりと笑う。
「そうそう、その生意気さだよ」
「出てってくれ」
疲れたと言わんばかりに溜息を吐き出す。
「まだ言いたい事は有るんだがな。仕方ないか」
椅子を立つ音。
背中越しの、遠ざかる気配。
数歩歩んで董凱は言った。
「明かり、消すぞ」
「――っ!!待っ…!」
火を消す為の風を起こそうと掲げられた手は、灯の寸前で止まった。
正確には、止められた。
右腕の袖を掴む白い手は、小刻みに震えている。
その向こうにある肩は、苦しそうに上下していた。
「…怖いか。闇が」
一瞬にして寝台から飛び出した身体は、ずるりと沈んだ。
しかし袖はしっかりと掴んだまま。
座り込み、項垂れて、肩で息をしている。
「死が、怖いか」
「違…」
細い声で否定する。
「そうじゃない…」
それ以上は言えず、強い眩暈で頭を起こしてすら居られなくなった。
一瞬遠くなった意識が、床に頭を打ち付けた痛みで少し戻ってくる。
だがその痛みすら、どこか遠くて。
「おい…しっかりしろ」
支える手。浮遊して寝台に戻される身体。
狭く、ぼやけた視界に入る董凱の顔。
重なる顔。
――クロ…
今どうしているだろう。
無理矢理行かせてしまったが、酷だっただろうか。
何事も無く光爛に会えていれば良いが…
そして、無事に帰って来た所を、早く見たい。
自分で追い出した癖に、こんな事を願うのは都合が良すぎるだろうが。
でも。
待っていてやりたい。今度こそは。
ただ、それが出来る自信も無い。
だから、永遠に続く闇が、怖い。
眠りから醒めず、夜が明けない事が。
「…もし」
半ば夢中で隼は囁いた。
「俺が自分で言えなかったら…代わりに謝ってくれ」
途切れがちの言葉。董凱は耳を寄せて聞く。
「いつも待てなくて…悪かった…って」
「何言ってんだよ、自分で言えよ…そんな事は」
微かに口角を上げ、隼の手が、董凱の手を、握った。
「黒鷹の事…頼む」
その一言に、残っていた全ての力を込めたかの様に。
僅かに開いていた眼は、閉じられた。
「……」
力の無い手を挟むように、もう片方の手をそっと置く。
確かに温かな手。
まだ、生きている。それなのに。
「頼まれる立場じゃねぇよ…俺は実の親だっつの…」
どうしてこの温もりが消えると思えるだろう。
目を背けたくとも、出来ない。
「寧ろ…礼を言いに来たのに…。人の話は聞かずに眠りこけやがって…」
――まだ、伝えなくとも良いか。
隼が黒鷹の親友であり、相棒である事に、終わりなど来ないだろう。
ずっとこのままであれば良い。
礼を言おうだなんて、縁起でも無ぇ。
「おやすみ」
両手の中にあった隼の手を、そっと布団の中に返して、董凱は立った。
天幕を出る。
数歩も行かないうちに、正面に立ち止まった影があった。
「行くか」
短く声を掛ければ、影は無言のうちに頷く。
「…帰って来いよ?」
本気とも冗談ともつかぬ言葉に、影――縷紅は少し笑んだ。
「董凱…今までの事、全て、感謝しています」
深く頭を下げて、すっと踵を返す。
父親は、闇に消える紅を、気配が消えるまで見ていた。
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