RAPTORS
7
「隼…お、起きてんな」
天幕を開けて中を窺い見た黒鷹は、嬉しそうに言って中に入った。
「一人か?緑葉は?」
「さっき出て行った。水汲みだって言ってたが…遅いな」
「途中で一服してんじゃねぇの?四六時中お前の相手じゃ疲れるだろうし」
「どういう意味だそれは。お前の相手のがよっぽど疲れるっつの」
「えー?お前だけだよそれは」
言い合いながらも笑い声が響く。
こんなたわいも無い会話さえ、嬉しい。
「なぁ、クロ」
「ん?」
「俺の為に縷紅を困らせるような事…言ってないだろうな?」
図星を突かれた。
「なんで」
「お前の単細胞なら有り得るかと思って」
ちらりと、緑の瞳が黒鷹を捕える。
見透かされようだ。
「な…無ぇよ、そんな事!!俺単細胞じゃねぇもん!!大体、お前の為に国を左右するような事言うかよ…」
言葉を並べて本心への壁を作る。
その反応に隼は「ふぅん」とだけ言って、
「それなら良いけど」
と、口を閉じた。
沈黙が流れる。
隼は遠くに目を遣っている。勿論、何歩も行かぬ先に天幕の布が有るのだが。
黒鷹はそんな隼を眺めていた。
何処を、何を、何時を――見ているのだろう。
先は、見たくない。
「このまま、今が続けば良いのに…」
小さく、黒鷹は呟いていた。
聞こえなかったのか、隼は何も返さなかった。
代わりに、暫く経ってから口を開いた。
「…ガキの頃、お前も病にかかった事があったよな」
「あった…な。何日も寝込んだ事が」
育ててくれた母――后が亡くなった後の事だ。
「お前にも心労ってヤツが有るのかと驚いたよ」
「失礼な。鶸の親父の事件から悩みっ放しだったんだぞ。そりゃまぁ、子供なりの考えしか無かったけど」
「知ってるって…冗談だよ」
「半分は本気だった」
軽く笑って隼は否定しない。
だが、笑い飛ばしてしまうにはあの時期は――重過ぎた。
「でもさ」
黒鷹が口元に笑いを残しながら続ける。
「あの時、お前ずっと世話看てくれて、嬉しかった」
「…そうだっけ」
「すげぇ嬉しかった…今更だけど、ありがとな」
初めて、ずっと側に居てくれる人。
その温もりが嬉しくて。
「だから、お返ししたくてさ。お前が病気悪くして孤児院に返された時、俺訪ねて行きたかったんだけど…ダメだった。許して貰えなくてさ」
「そりゃそうだろ」
「だから嫌だったんだ…王子なんて」
呟いて隼を見ると、呆れた顔をしている。
「…何だよ?」
「…いや?」
はぐらかされた。
「今絶対、何か言おうとしてたろ!?言いたい事あるならハッキリ言えよ!」
「指図してんじゃねぇよ!主従ですら無くなったのに!」
「そんなモン昔っから有って無かったようなモンだったじゃねぇか!!」
言い合いは、例によって隼の溜息で打ち消される。
尤も彼は、大声を出すのも辛い体なのだ。
「…お前が王子だったから、俺は」
静かな声で、隼は言った。
「お前と、この国の元に居れたんだ…。そうでなきゃ、恨みと憎しみに堕ちてこの国で生きなきゃならなかった」
傷付けられ、苦しめられ、虐げられて。
それでも、運命を嘆く事なく生きて来られた。
「地に連れて来られた過去を変えたいとは思わない」
「…ごめん。ありがと」
「王権を手放す事に反対はしない。苦しいのも辛いのも分かってるし、背負うのはお前だからな。俺がとやかく言う事じゃない。…ただ」
黒鷹は内容の読めない話の先を待つ。
隼は難しい顔をして――何かを迷っている。
「お前が成すべき事…成さなければならない事は…あるだろ」
「…何のこと…?」
分からないと見返した黒鷹に、隼は書状を差し出した。
「これは?」
受け取りながら訊く。
「光爛への書状だ」
「…え…!?」
「届けて欲しい。頼む」
この目は――戦を指揮する事を頼まれた、あの時と同じだ。
黒鷹は妙に鼓動が早くなるのを感じた。
「お前が書いたのか…?」
「ああ。援軍にもう一度来て貰えないかと思ってな。勝つ為にはどうしても必要だ」
「中見てもいい!?」
「開けたら斬るぞ」
「……」
冗談だと分かってはいるが、睨みに固まる。
「根と地の関係を取り持ったのはお前だ。お前が行くべきだろ」
隼は真面目に言って、付け加えた。
「この書で、俺が地の為に働ける事は…最後になるだろう」
何か言おうと口を開きかけて、言葉が浮かばない。
黒鷹が望んだ事なのだ。
隼と光爛――親子の関係を、取り戻そうと。
この書状の内容はきっと、それが叶えられている。
そう、分かっているのに。
「…どうした?」
あまりに浮かない顔をしている黒鷹を不審に思い、隼はその顔を覗き込む。
黒鷹は黙っている。
「クロ?」
「…くだらねぇ事、言っていい?」
「駄目っつっても言うんだろ」
複雑な笑顔で頷いて、黒鷹は言った。
「こんな時にお前と離れるのは…嫌だ」
「…何言うかと思えば…」
「だって!俺が居ない間にお前に何かあったら…」
「……」
「二度と会えないかも知れない…」
泣き声のようなか細い声を、隼は黙って聞いた。
しばらく何か考えていたが、やがて決意した顔に変わり、口を開いた。
「お前が行きたくないのなら、俺は無理に押し付けられない。…だが、お前は地を見捨てられるのか?」
「……!」
「それで国王陛下や后様に顔向け出来るのか?」
次王として自分を育てた義理の両親に。
「隼…」
「俺の事なら心配するな。根に行って帰るくらいの期間で死んだりしない」
「いや…“くらい”って…」
「五日間だ」
「は?」
「五日で行って来い」
平然と隼は告げた。
「なっ…どんな強行軍させる気だよ!?」
「根なんざ二日あれば着くだろ」
昼夜問わず歩けと言っている。
「てめ…他人事だと思って…」
憎々し気な黒鷹の言葉を、隼は鼻で笑った。
「いいから、早く準備して行ってこい」
まだ黒鷹は渋々と言った様子で立ち上がった。
扉まで歩み、立ち止まる。
「隼――」
まだ、 何か言わなければならない気がした。
だが言葉が見付からない。
そんな黒鷹に、隼が一言、言った。
「頼んだぞ」
黒鷹は頷く。
――そうだ、言葉なんて、必要無い。
大切な事は、二人が共有している事なのだから。
軽く手を振って、黒鷹は天幕から出た。
入れ違いに入ってきた人物が居た。
緑葉だった。
「遅かったな」
一言、隼が声を掛けた。
緑葉は曖昧に頷いただけで、理由は言わない。
隼は追求しなかった。出来なかったのだ。
もう喋るのも辛い。
「無理、するなよ」
そんな隼に気付いて、緑葉が言う。
隼は頷きながら横になった。
呼吸が荒くなる。
「あの娘には辛いところを見せない気か?」
黒鷹が出ていった方を見やりながら、緑葉が訊いた。
隼は応えなかった。
なるべくならそうしたい――が、無理だろう。
意識の無い時に既に見せてしまったかも知れない。
そうでなければ、あんなに心配される筈が無い。
「見栄っ張りめ」
緑葉の笑いながらの言葉に、「違ぇよ」と口の形だけで反論する。
本当は。
五日後でさえ、どうなっているか分からない。
生きているにしても、意識があるとは限らない。
だからせめて、話が出来る間だけは、自分として居たいのだ。
黒鷹の為に。
「まぁ、気持ちは分からなくもないけどさ…」
言いながら緑葉は、寝台に目を向ける。
瞼が閉じられている。
「…そんなに疲れていたのか」
呟いて、作業する手を止めた。
普通に会話する事さえ、体力を多く消耗するのだ。
そこまでして、黒鷹に隠したいのか。否――
「何を、守ってんだろうな…」
それは隼自身のものか、黒鷹の持つものか、二人の間に在るものか。
そこまでして“隠す”のは、“守る”為に見える。
緑葉は深く深く息を吐いた。
――己にも、ある。
「隼、俺は」
直接言おうか迷っていたが、この際聞こえていなくても吐き出す事にした。
「自分と、お前達に報いる為に」
帰りが遅くなったのは、聞いてしまったからだ。
「天に、行く…」
縷紅と旦毘の会話を。
「…許して、くれるよな」
天幕の中は、寝息だけで、あまりにも静かだった。
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