impatient
5
スーツを着てドアを開けると、待ち構えたように大澤が立っていた。
怪訝に思い、聞くより先に朝の挨拶が来る。
返すとすぐに本命の言葉が投げかけられたが、内容は的外れだった。
「……病院?俺は別にどこも悪くない。ああ、あのメイドが何か言ったか。今朝少しふらついたが、立ちくらんだだけだ。問題ない。」
大澤の様子がいつもと違うのは、退院したばかりの体調を気遣ったらしい。
そんなことかと玄関に向かって歩き始めた俺の後ろから、しかし声は追ってくる。
「あのメイド、と仰いますと?」
「昨日車に乗っていた、あれだ。」
「……どなたのことでございましょう?」
何だ?
二度目の疑問に歩みを止めた。
「何を言っている。いただろう、昨日。同乗したメイドは、あの若い娘一人だろう?」
まさか大澤がわからないはずがない。
「どなたか、お忘れですか?」
「新人だろう?」
言いながら、どこかで会っただろうかと記憶を探る。やはり覚えがない。もし初対面でなくとも、たいして関わった相手ではないはずだが。
「誰だ?」
「…………。」
大澤いわく、以前から屋敷で働いていたメイドで、存在自体を忘れるはずはないとのことだ。
そうは言われても、俺とて他人を忘れることくらいはあるのだが……。
再度病院にと促され、少し渋る気持ちはあったものの、長年仕える大澤の判断に任せた。
俄には信じきれないが、大澤の話を考えてみると少し納得できることもある。
――そうか。だから、名を尋ねた時にあれ程驚いた。妙に馴れ馴れしかったのも、そのためか。
合点がいき、勝手な苛立ちをあんな形でぶつけてしまったことに、胸が痛む。
そして、昼の相当な時間を病院で過ごすことになったが、結局原因はわからなかった。
メイド一人忘れたところで特に不都合はないが、ピンポイントで忘れたとは考えにくい。
気持ち悪いものを抱えて家に帰ることになった。
しかし、本当に彼女とそれほど関わりがあったのだろうか。
単純に忘れているだけではないのか。
大澤は信頼しているが、どうしても自分の記憶の方を信じてしまう。
他の人間の意見を聞きたくて、帰宅してすぐに亜希を呼んだ。
しかし来たのは、強張った顔の新人メイドその人だった。
「亜希を呼んだはずだが?」
「私ではダメですか?」
当の本人に聞けというのか。
確かに手っ取り早いが、俺はそこまで割り切れていないし、俺にとって面識の浅いこの少女をそこまで信用しきれないことも事実。
恐らく亜希が嫌がったのだろう。
昨夜も話があると言って呼び出した。あの拒否が続いているのは明らかだ。
目の前の少女自身も、本当にただ話があるだけとは思いもせずに、代わりにやって来たのだろう。
「お前、嫌なのではなかったのか。」
「……初めてのことでびっくりしただけです。」
ズキンと軋むのは、頭ではなく胸の中心だった。
「今朝は悪かった。」
正直、抱くのが怖い。
あの時の表情が頭から離れない。
初めてだ。こんな感情。
また傷付けてしまったらと思うと、話すことさえ難しい。
傷つけたくない。
この少女にあんな顔を二度とさせたくない。
「大丈夫です。」
ドキリとする。
心の声に返答されたのかと思った。
きっと無理矢理作ったのであろう微笑みは、それでも少しばかり俺の心を落ち着けた。
繊細なガラス細工を扱うように、出来る限り優しく触れた。
昨日は気付かなかった、滑らかな肌。
輪郭を指先で辿り、色付いた唇に触れる。
僅かに震えていた。
「何故泣くんだ……。」
大丈夫だと微笑んだのは、つい今しがたのことだ。
むせび泣いているのは彼女なのに、こちらが苦しくなる。心臓が鉛のようだ。
どうすればよいかわからない。
泣く理由もわからなければ、
俺はこの少女のことを何一つ知らない。
半ば途方に暮れて溜息を吐く。
こうなってしまっては勃つものも勃たない。
元々今日はモヤモヤしていてそういう気分でもなかった上に、触れて泣かれて萎えないほどサディスティックではない。
やはり亜希に話を聞こう。この少女と話すのはそれからだ。
乱した服を整えてやると、彼女はハッとした様子で俺の手を遮った。
「ひ、だかさ、…!まっ…待ってください!わたし、できます……っ」
「今日はもういい。悪いが亜希を呼んでくれるか。」
「い、嫌……!」
嫌、だと?
涙をボロボロと流しながら、まっすぐ見つめる瞳。目元は悲痛に歪んでいる。
何故そこまでこだわる。
疑問は尽きることなく次々に新しく生まてくるが、あまりの泣き様に、何も口から出せなかった。
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