小説 3
漆黒王と幻の伴侶・15
オレらと同じく、肖像画に触っちまったんだろう。顔にまで赤い線を走らせた侍従が、玉座のある段をギクシャクと上って、オレの足元にドサッと四つん這いになった。
「助けて。助けて下さい」
侍従はぶつぶつと呟きながら、テーブルの代わりになるよう、背中をぴんと平らに伸ばした。
ああ、操られてる。
こいつも、大臣も。
「陛下、早くお逃げください。このままでは、お命が」
大臣は泣き腫らした顔で、魔女から受け取った結婚証明書を、侍従の背中にひらっと載せた。そしてオレに、印璽とペンとを差し出してる。
「命がって……どういう事、だ?」
ぴきぴきと、おぞましい感触が右腕の皮膚を走る。オレもあんな風に、操られるんだろうか。
冗談じゃねー。
「くそっ」
歯噛みするオレに、大臣が、さらに冗談にならねぇコトを言った。
「地下牢から、あの方が」
地下牢……さっきも、そう言ったな。
あの方って誰だ? この間ぶち込んだ料理長か?
それとも……。
きゃはははは、と魔女が笑う。
耳障りな笑い声に、考えがうまくまとまらねぇ。
右手の痣がぴきぴきと拡がる。
「うるせー! そんなにオレと結婚してーなら、まず好かれる努力をしたらどうだ!」
思わず大声で怒鳴ると、魔女はくっくっと喉で笑い、蔑むような目でオレを見た。
「どこまでおめでたいオツムなのかしら。さぞご自分に自信がおありですのね。王だからチヤホヤされてるだけとも知らず」
「何だと!? このっ……!」
ムカついた。
そんな訳ねぇって思うのに、否定できる確信がねぇ。
困ってても疲れてても、相談できる相手がいなくて。いたハズなのに、今はいなくて。
ミズタニ? 大臣? 後見人? なんか、どれも違う気がして。でも、思い出せねぇでイライラする。
ムカムカする。
右手がギシギシと勝手に動く。
オレは動かさねぇように頑張ってんのに、勝手に動いてペンを掴む。
「さあ、早く署名して下さいませ。そして早く印を押して下さいませ」
魔女が杖を振りかざし、濁った石のはまったヘッドをオレに向けた。
浸食されるスピードがアップする。
右肩から右胸、わき腹の下に、おぞましい感覚が走る。
ペンを掴んだ右手が、サインしようとブルブル震える。
こんな震える手じゃ、サインしたくてもできねーよな。情けねーけど、それだけが救いだ。
まだ自由に動く左手で、侍従の背に載せられた無意味な証明書を払い落とすと、魔女の眉間にクッとしわが寄った。
「悪あがきを」
気のせいか……額にも、鼻の横にも。口元にも、しわが。
それに気を取られてたから、正面の扉から誰かが入って来たことに、とっさに反応できなかった。
つん、と鼻をつく悪臭が漂い、はっとそこに目を向ける。
見た途端、目が痛くなるような汚らしさに、恐怖さえ覚えた。
4年で……こうも変わるものか。
「叔父上」
オレの言葉に、かつて叔父であり軍人でもあった地下牢の主は、短く応えた。
「コロス」
人間とは思えねぇような声。オレに向けられる、強烈な怨嗟。
「コロス」
オレを殺す、と……それだけを思って、4年間過ごしたんだろうか。反省とか悔恨とか、そういうの考えもしなかったんだろうか。
「あああ、陛下。署名してはなりません」
大臣が、床から証明書を拾い上げながら言った。署名するなと言いつつ、オレの右手をぐっと押さえ、震えねぇように固定までする。
「この証明書を書かせ、その後で陛下を亡き者にと……。脱獄した叔父君に陛下を殺させ、すかさず叔父君を処刑し、悲劇の未亡人の顔をして堂々と国を乗っ取る。魔女めが! そういうつもりに違いありません!」
大臣の言葉に、魔女は何も言わなかった。ただ、耳障りな声で、きゃーっはっは、と笑った。
一方の叔父は、魔女の横をすり抜け、固まったまま立ち尽くしてる財務大臣の、すぐ後ろにまで迫ってる。
「コロス、コロス、コロス」
地下牢暮らしで痩せ細った身を引き摺るように、汚物のような叔父が歩いて来る。一歩一歩近付くたびに、目が痛いくらいの悪臭が強くなる。
それに肩を貸しているのは、裏切り者の料理長だ。
叔父か、魔女か。どっちの味方だったのか、それとも両方だったのか。
つい先日、無実の魔女姫を指差して濡れ衣を着せた……あの時と同じ顔でオレを見てる。
「署名するまで殺させてはならぬ」
魔女が料理長に命令した。
料理長は下卑た笑いを浮かべ、叔父を抑えて立ち止まった。白かったコックコートは、たった数日の地下牢暮らしで汚れきってる。
ああ、あの床はいつも下水で濡れてたな。石の寝台は素晴らしく冷たく、出されるパンは固かった。
衛生状態は最悪で、痩せ細ったドブネズミがうろついてて――。
「早く署名せよ!」
魔女が苛立ったように叫んだ。
濁った石の杖をオレに向け、ゆっくりと近付いてくる。
叔父たちに並び、足並みを揃え、財務大臣を突き倒し、オレのすぐ目の前に。
そして魔女だけが、一歩進んだ。
濁った石が、ぐいっとオレに向けられる。
書きたくねぇ。
署名なんかしたくねぇのに、右手が名前を書こうとする。
ぴきぴきと呪いが肌を走る。胸も背中も覆い尽くして、首へ、そして左肩へ。
内大臣が、泣きながらオレの右手を押さえつける。
「魔女め、魔女めが、呪ってやる」
大臣の手も腕も、ぶるぶると震えてる。全力で抵抗してる。
今んとこ、オレの自由になんのは左手と首から上だけだ。けど、いくら鍛えたオレの腕でも、全力で押さえつける大臣の手を引き剥がせねぇ。
「ちくしょ……!」
オレはぐっと奥歯を噛み締め、握り締めた左こぶしで、大臣の両手をガンと叩いた。
すると。
ハメてたブレスレットが、たまたま大臣の右手の痣に当たって、そして……。
ビキィッ!
甲高い音を立てて、バラバラに砕け散った。
その反動で、大臣がわずかに吹き飛ばされ、右手がいきなり軽くなった。
砕け散った破片が目に入りそうになって、とっさに目を閉じたオレは、衝撃を受けて痺れる左手で目をこすり、大臣の方を見た。
「内大臣!」
呆然と尻餅をついてた内大臣は、不思議そうに自分の両手を広げて見て……そして、ハッと立ち上がった。
オレよりもヒドかった呪いの痣が、すっかり消え去っている。
けど、オレの右手には……まだ、朱い痣が残されてた。
くそ、もっと早く気付けばよかった。
タダのお守り代わりに、あいつがこんなモノくれるハズなかったのに。
□□□。
いや――ミハシ、だ。
「陛下!」
内大臣が、結婚証明書をさっと抜き去り、ビリビリに破った。
「思い通りにいかせるか、この魔女め!」
そして、すぐ目の前に迫ってた魔女に、懐剣を抜いて飛びかかった。
「死ね!」
けど、魔女の方が一瞬早かった。
オレに向けてた杖を大臣に向け、歯をむき出して何事か叫ぶ。
呪文だったのか、ただ怒鳴っただけか。
聞き取れねぇ音を発して、魔女が杖から力を放つ。
大臣の体は壁際まで吹き飛んで、ドサッと鈍い音を立てた。
大臣も心配だったけど。
そっちの方を見る余裕はなかった。
だって、信じらんなかった。
シャァーと息を吐いて、オレの方に杖を向け直した魔女は……相変わらず、ひらひらのドレス姿のままだったけど。
ボサボサの白髪でシワシワの顔で、濁った黄色い目をした、老婆に変わってしまってた。
(続く)
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