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小説 3
My Dear My Baby・2
 廉は黙って、蛇口から水を勢いよく出した。吐瀉物を排水溝に流し込み、そのまま水道水で、うがいをした。
 必死で平静な風を装ってるが、足がガクガク震えてる。
 隆也はすぐに悟った。
 ……つわりじゃねーの?
「なあ、廉、お前……」
 廉はびくり、と肩を震わせ、隆也の方を振り向いた。
 いつも下がりがちの眉が、更に下がっている。
 すでに泣いていたのか、目が赤い。
「隆也さん………」
 ひくっ、としゃくりあげ、大きな瞳から涙がこぼれる。
「どうしよう」
 ぽろぽろと泣きながら、廉が言った。

 どうしよう、と。


 ショックだった。
 単純に喜んだ自分を、ちょっとだけ責めた。
 自分たちは夫婦だ。妊娠したって、何も恥じる必要はない。
 けれど……。
 子供が生まれたら。
 いや、その前に、妊娠・出産は。検診は。病院は。
 保険は。

 隆也は一瞬動揺したが、安心させるように、廉を抱き締めた。
「大丈夫、何とでもなるさ」
 廉は、考えすぎる程、いつもぐるぐるする性格だ。きっと今、この瞬間も、ネガティブなことをぐるぐる考えているのだろう。
 こんな時は尚更、自分がどっしりと地面に足を着けなければ。
 くよくよ考えていても仕方ない。

「取り敢えず、メシ食おう。オレ、腹ペコじゃ、次のバイトに行けねーよ」
 ちょっと怒ったように言ってやると、「う、ごめん、なさい」と謝って、廉も涙を拭いた。
「妊娠検査薬、買って来てやるよ。まずはちゃんと確かめて、それから考えよう。な?」
 隆也は、廉を安心させるよう、自信たっぷりに笑って見せた。
 けれど、廉は……涙の跡の残る顔で、小さく微笑んだだけだった。



 引越し業者のバイトを終え、くたくたでアパートに帰った隆也を、1枚の書類が待っていた。
「何だ、これ?」
 リビングのテーブルの上に置かれた紙を、ぺらりと持ち上げて、内容をざっと読む。
「手術承諾書? ……手術って……」
 手術って。

 何の手術だ!?

「廉!」
 隆也は怒鳴って、キッチンに駆け込んだ。廉は、隆也の大声に、びくりと背中を震わせた。
 けれど、振り向かない。
 振り向かないで、黙ったまま、夕飯の支度を続けてる。
「どういう意味だよ、これ」
 隆也はその紙を廉の前に突き出し、右手の甲で、パンパンと叩いた。
「う、だって……」
 反論めいたものを口にするが、廉はやはり、隆也を見ない。
 こいつがオレの顔を見れない時は、今までだって大体ろくなことがなかった……と、隆也は眉をひそめた。

 廉は、高校生の頃からそうだった。
 自分に自信がない。その上、考えすぎる。
 廉がぼんやりしてる時は、大体いつも、何かを考えている時だ。
 誰かに相談するという習慣がないから、一人でぐるぐる考える。考えて、考えて、考えるのに疲れ果て、そして結局、妙な結論を出してしまう。

 でも、それが廉という人間の、大元なんだから仕方ない。そういうところもひっくるめて、隆也は廉が好きだった。
 何より、隆也が惹かれた努力家の部分は、このネガティブ思考あってのものだ。
 だから、こんなネガティブにぐるぐる考えるバカは、バカだと思っても嫌いにはなれない。

 隆也はため息をついた。

 そのため息にすら、廉はびくっとした。
「病院、行ったのか?」
 廉は、小さくうなずいた。
「で、妊娠してたのか?」
 その問いには、一瞬固まり……数秒後に、また小さくうなずいた。

 そうか、と思う。
 やっぱり緊張する。
 嬉しいのは嘘じゃない。でも、不安なのは自分も一緒だ。
 きっと廉も不安なのだ。
 一緒だ。
 
 でも。

「産みたくねーの?」

 隆也の問いに、廉は小さくうなずいた。
 目を逸らしたまま、うなずいた。


 まな板の上では、玉ねぎもニンジンもナスもピーマンも、全部ごちゃ混ぜの微塵切りになっていた。

(続く)

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