小説 3
My Dear My Baby・1 (にょた注意・新婚・貧乏・シリアス)
目覚ましの音で飛び起きる、午前4時。
高校時代は野球部の朝練で、いつもこのくらいに起きていたから、気分的にはまるで苦痛に感じない。
「う、ん、朝……?」
同じ布団で寝てた妻が、わずかに体を起こそうとするのを、隆也は肩を抑えて押しとどめた。
「もすこし寝てろ」
優しく言って、妻の長い髪を撫でる。
「ん、ごめん……」
妻は謝って、けれど素直に眠りに落ちた。
妻の廉は、最近、体調が良くないらしい。
元々朝は弱い方だったが、ここ数週間は、特にヒドイ。
暖房のない部屋で、体温を分け合い愛し合っている最中にも、気絶するように眠ってしまう。
春だから、と本人は言ってるが。
……まさか、病気とかじゃ、ないよな?
隆也は、妻を起こさないよう、静かに慎重に服を着ながら、小さく小さくため息をついた。
駆け落ちは、考えて考えて、二人の為に考え抜いて選んだ道だった。後悔はない。
結婚式が挙げられなくても、誰も呼べなくても。婚姻届の証人の欄を、役所の人以外、誰にも書いて貰えなくても。
後悔はなかった。隆也と廉は、夫婦だった。
大学中退では、このご時勢、正社員で働くことはまず無理だった。いつか景気が良くなることを夢見て、バイトを掛け持ちしていくしか仕方ない。
けれど、幸いにも隆也は体格が良く、ずっと続けていた野球のお陰で、人よりも体力があった。
だから、朝4時に起きる新聞配達も、まるで苦ではなかった。
ただ、苦痛なのは。
未来に展望がないことだった。
いや、展望がないと思ってしまう、自分自身のことだった。
「行って来るな」
聞こえないような小声で言って、隆也は黎明の町に出る。
生まれ育った埼玉から、遠く離れた西の町。同じ日本なのに、夜明けがこんなに遅いとは、住んでみるまで知らなかった。
街路灯も少ない、真っ暗な闇の中。隆也は錆びた自転車にまたがり、新聞集配所へと向かう。
今しか見えない。
未来は見ない。
廉を失う明日よりも……隆也は、今日を選びたかった。
隆也と廉は、高校の同級生だった。
隆也が野球部の副キャプテン、廉はマネージャーの一人だった。
どちらかと言うと、自信過剰気味だった隆也に対して、廉は逆に、謙遜過剰だった。まあ実際、何をやっても要領が悪くて、ぼーっとしてるところはあったけれど。
それでも、要領が悪いからこそ、人一倍の努力を惜しまなかった。そしてその努力を、決してアピールしなかった。
……そんなところに惹かれた。
高校生の内は、幸せだったと思う。未来も家族も、何も考えなくて、「好き」の気持ちだけで行動できた。大学に入っても、このままの恋人関係が続くと隆也は思っていた。
けれど、大学2年の春。
廉の20歳の誕生日、突然廉に、結婚話が持ち上がった。
廉は、資産家の家の令嬢だった。勿論それは、隆也も知っていた。お嬢様らしく、世間知らずなところもあったし、それが可愛いとも思っていた。
しかし、政略結婚……しかも20歳で……そんな未来は、想定外だった。
隆也は、廉を失いたくなかった。
廉も、隆也じゃなきゃイヤだと言った。
だから、手に手をとって逃げた。丁度、1年前だ。
そして、隆也の20歳の誕生日を待って、婚姻届を出したのが半年前。
結婚に親の同意が要らなくなる、20歳。これを待つ数ヶ月間が、とても長かった。
だが……、と隆也は思う。
安物の、1万円くらいの指輪しか、買えなかったけど。プラチナじゃなくて、シルバーだけど。
それでもペアリングをちゃんと交換した自分たちは、夫婦だ。
夫婦なんだ………。
ようやく空が白み始めた頃、隆也はバイトを終え、二人の暮らす古いアパートに戻った。
隆也達が生まれる前から建っていたこのアパートは、古いなりに小奇麗だったし、何より借りるのに、保証人が要らなかった。
保証人無し物件、というのは最近ではかなり増えてるらしい。敷金礼金無しで共益費込み5万円以内。しかも駅から徒歩15分以内。そんな物件は、ネットで幾つも検索できた。
「ただいまー」
隆也が玄関の戸を開けると、ふわり、とメシの炊ける匂いが鼻をくすぐった。それに合わせて、焼き魚の匂いも漂ってくる。
一切れ98円のシャケだろう。それに、3個100円の玉ねぎの味噌汁。
贅沢はできなくても、廉の手料理ってだけで、隆也には十分ご馳走だった。
ひと働きした後だ。ぐう、と鳴り始めた腹を撫でながら、隆也は狭いキッチンを覗いて、声を掛けた。
「ただいま、廉……」
そして、はっと息を呑んだ。
廉が、流し台に縋るように、うずくまっていた。
「どうしたっ?」
駆け寄って、細い肩を抱き寄せる。顔が青い。
震えている。
「う……っ」
小さく呻いて、廉が細い腕で、隆也を押しのけた。ふらっと立ち上がり、流し台に覆いかぶさるようにして……。
吐いた。
(続く)
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