小説 3
ノーサイン・2
その夜。風呂に入って、ギョッとした。
右手首に、くっきりと紫の痣ができてる。
三橋が掴んだ場所か? 何で今まで、気付かなかった?
その痣を見てる内に、三橋の冷たい顔を思い出した。
「くそっ!」
バシャン! 湯を叩いたら、しぶきが顔に掛かって、余計に腹が立ってきた。
「何だってんだよ!」
すると、ガチャっと内開きのガラス戸が開いて、親父が顔を覗かせた。
「うるせーぞ、さっきから。風呂くらい、静かに入れ」
聞かれてるとは思ってなかったので、ちょっと気まずくて、我に返る。
つか、聞き流してくれりゃーいいのに。
「あー? ほっとけっつの」
悪態を返すと、親父が面白そうに言った。
「何だー? 投手と痴話ゲンカか?」
「痴話ゲンカじゃねーし」
大体、何で三橋絡みだと思うんだ。まあ、当たってっけど。
「はーん。けど、あの子がお前とケンカできるようになったんなら、大した進歩じゃねーか」
「進歩って……。何だよ、分かった風な。会った事もねーくせに」
「会ったから言ってんじゃねーか」
親父がそう言って、戸を閉めた。
「会った? ………いつ?」
返事はない。親父はもう行っちまったらしい。
オレは湯船から出て、イスに座り、シャワーを出した。頭を濡らしながら、考える。
確かに今まで、ケンカになんかなりようがなかった。
あいつは従順だったし、オレを信頼してくれてたし、オレに頼りっきりだったし。
オレもあいつの事、頼りねーと思ってたし。
だから、三橋があんなふうに、オレに意見できるのは……ホントなら歓迎すべきなんだろう。ホントなら、ぶつかり合って、意見言い合って、どうにかまとめるべきなんだろう。
けど、三橋にそれができるかっつったら、多分できねーよな。
三橋は、そもそも日本語の選び方が下手だ。
春に比べりゃ、かなり分かるようにはなったけど、それでもやっぱ、言ってる事の半分も理解できねぇ。
だったら察してやれってか?
それも捕手の仕事の内か?
――あと2年。
――集中してない。
三橋の言葉を思い出す。
……一体何に、集中しろって言ってんだ、あいつ?
オレにどうして欲しいんだ?
けど、一晩考えても分からなかった。
翌朝。
「はよ」
オレから挨拶してやると、三橋はビクンと体を跳ねさせ、おずおずと振り向いた。
「お、……はよ、う」
昨日の強気が嘘みてーな、オドオドっぷりだ。
そうだよな。これがいつもの三橋の姿だ。やっぱ昨日は、ちょっとおかしかったんじゃねーか?
けど。三橋はモモカンにも頼んでたみてーで、投球練習はまた田島と組むことになった。
オレは沖と投球練習しながら、ちらちらと横目で二人を見てた。
「スゲー、三橋、ナイスボール!」
田島のはしゃいだ声が、癇に障る。
何だよ、それじゃ、集中してるって言えなくね?
そんなオレの考えを読んだように、沖が言った。
「田島、すごい集中だよね」
「はあ? そうかー?」
反論すると、沖はちょっと引いて、けど、恐る恐る「気付かないの?」と訊いてきた。
「よく見てよ、あの二人。夏大前から、時々あんなだよ」
夏大前から?
時々あんな?
集中?
いや、むしろ調子悪くねーか?
さっきから、田島のミットが動いてばかりだ。
三橋は、同じところに何球だって連続で入れられる。だから、ミットがあんなに動くなんて、有り得ねー。
「三橋っ、集中しろ!」
オレは大声で怒鳴った。
けど、三橋には聞こえてねーみてーだった。田島にも聞こえてねーようだった。
ホントに集中してんのか?
んな、バカな。
だったら、何で、ミットが動く?
ほら、今も!
そう思って、はっとした。
今やっと気付いた。見るべきは田島だと。
田島は三橋に……ノーサインで投げさせていた。
(続く)
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