小説 3
追憶のカウントダウン・5
木曜日。
昨日より気持ちは軽かったけど、玄関を開ける時はやっぱちょっと緊張した。
「ただいま……」
いつものように言っちまってから、ハッとしてうろたえる。
お帰りー、と出迎えてくれる声はなくて。
ただいまを言わなくなったのはオレの方からだったのに、返事がなくてグサッときた。
メシの炊ける匂いに促されて、靴を脱ぐ。
今日はカレー作ってくれてるハズだ。まだそれらしい匂いはしねーけど。
三橋はまたコンロの前か?
笑顔じゃなくてもいーから、せめて昨日よりはマシな顔見せてくれるだろうか?
けど、恐る恐るダイニングに入って、あれ、と思った。明かりは点いてんのに、誰もいねぇ。
「三橋……?」
名前を呼んでも返事はねぇ。
コンロに置かれてる鍋を覗くと、まだ熱い。ジャガイモやニンジンがゴロゴロ入ってて、ルーはまだだけど、多分カレーだ。
そこかしこに気配はあんのに三橋の姿だけなくて、なんつーかキモチワリー。
気のせいか、ダイニングやリビングがガランとしてる。
「三橋? 寝てんのか?」
コンコン、と部屋の戸をノックして開けると、やっぱそこにも三橋はいなくて――。
「な……んだ、これ……」
代わりにダンボールの山が壁際に積まれてて、ギョッとした。
いつも雑然としてた三橋の部屋は、ほとんど空っぽで。ベッドには布団も枕もなくなってて、わずかな着替えだけが開けっ放しのクローゼットに掛かってる。
空いてるダンボールに封さえすれば、もういつでも出て行ける感じだ。
カレンダーの残りの丸を思い出す。
日曜に出てく、って分かってたハズなのに、分かってなかった。
今日が終われば、あと2日。3日目の日曜にはもう――三橋はここからいなくなる。
単なる引っ越しじゃねぇ。
もうきっと、2度と会えねぇ。取り返しはつかねぇ。
なんで……?
オレが裏切ったからか?
「別れよう」って言ったから? あんなの、意味なんてなかったのに。
いや、意味はあったのか。三橋を傷付けようと投げたブーメランが、また1つオレに返って来ただけか。
呆然としてると炊飯器がピーピー鳴って、オレはゆっくり我に返った。
のろのろとキッチンに移動して、シンク横の水切りカゴからしゃもじを取り出し、軽く濡らしてメシを混ぜる。
『混ぜるんじゃなくて、ほぐすんだ、よ。周りからぐるっと、で、底から、こう……』
夏合宿だったかに聞いた、三橋の説明を思い出す。
オレの知らねーことを知ってる三橋を、1つ認めるごとに1つ好きになった、遠い夏の日がよみがえる。
あの頃欲しくてたまんなかったモノを、オレは確かに手に入れたのに――10年愛して側に置いて、今まさに失おうとしてる。
ポリネシアン・セックスを面倒がってる場合じゃなかった。
ホントに気にすべきなのは、その先の別離だった。
炊飯器をパタンと閉めた時、玄関間の方で物音がした。カタン、と内鍵の回る音がして、ガチャッと戸が開けられる。
パタパタとせわしなく帰って来た三橋は、ぼうっと突っ立ってるオレを見て、一瞬ぎょっと身を竦めた。
「か、カレールー、買い忘れ、て」
ごにょごにょ言いながらテーブルの上にレジ袋を置き、シンクで手を洗い、コンロに火を点ける三橋。
レジ袋から、ガサゴソとルーを取り出す音が響く。
オレの方を見ない背中。
イスに掛かったままのエプロン。
オレ達に今更自然な会話なんかなくて。
「メールしてくれたら、帰りにコンビニ寄ったのに」とか、そんな優しいセリフも今更口に出せなくて。
静かなダイニングで三橋がこまごまと動くのを、オレはぼうっと見てるしかできなかった。
炊飯器をぱかんと開けた三橋が、「あれ?」と呟くのもぼうっと聞いてた。
三橋の目が、おずおずとオレに向けられる。
「ご、ご飯、混ぜてくれた、のか。ありが、とう」
言いながら、三橋は居心地悪そうにぎゅっとシャツの胸元を握った。
すぐに逸らされる視線に、胸が軋む。
「三橋……もう」
もう終わりなのか、と口に出しかけたのが分かったんだろうか? オレのセリフに重なるように、三橋が少し大きい声を出した。
「カレー! 食べよう、か」
逃げなのか、牽制なのか、よく分かんねぇ。
ただ、伸ばしかけた手を振り払われた気がして、ショックだった。
ダイニングやリビングがガランとして見えたのも、錯覚じゃねぇのに気付いた。
あっちこっちに散らかってたハズの、三橋の私物が1つもねぇ。
全部……あのダンボールの中なのか。
それとも、床に転がってた膨らんだゴミ袋の中なのか――?
夜、ベッドで一緒に添い寝した時。背中向ける三橋に、「こっち向けよ」と言ってみた。
しばらくの沈黙の後、三橋がぼそりと訊いた。
「なんで……?」
「顔見てぇ」
短く答えると、ふっと笑う気配がした。
「もう見たくない、んで、しょ?」
って。自嘲気味に言われて、また1つブーメランの傷に気付く。
お前の顔なんか見たくねーとか、言ったかどうかも覚えてねぇ。苛立ちのまま傷付けて、まだ謝ってもなかった。
「悪かった」
三橋は返事をしなかった。
そりゃ、簡単に許して貰えるとは思ってねーけど。
「なあ、お前の背中しか思い出せねーの、イヤなんだよ」
そう言うと、ひぐっと泣き声が背中越しに聞こえた。伸ばしかけた手が宙に浮く。
すん、と鼻をすすった後、三橋から言われた言葉もショックだった。
「こ、わい顔しない、って、約束、して」
噛み締めた歯の隙間から、「ああ」と短く返事する。
今までオレは、どんだけ三橋を傷付けたんだろう? どんだけ謝ったら償える?
三橋がゆっくりとこっちを向いた。見慣れたハズの白い顔に、怯えの色が浮かんでる。
そっと手を伸ばすと、触らせて貰えてホッとした。
久し振りに触れた髪は、相変わらず柔らかで。でも泣き濡れた頬は、やっぱ丸みがなくなってた。
(続く)
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