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 ただ頭を下げるしかなく、ユリアンはそんなアーベルに何も言わず出て行った。
 埃っぽい部屋のベッドに座り込むアーベルの息苦しさといったら、二日酔いよりも酷いものだった。

「殿下……」

 目を瞑れば少しは心が落ち着くかと思ったが、胸の辺に渦巻く靄は一向に晴れる気配を見せなかった。
 シルクが肌に優しく触れる。その柔らかな感触が、今は悲しい。このシャツがユリアンから貰ったものでなければ、こんな気持ちになることはなかっただろう。
 昔からユリアンは、天使のように輝いて、周りにいる者を明るい気持ちにさせてくれる。変わったのは、アーベルの方だ。

「これでお前も今日から騎士になるのだな」

 幼いユリアンは可憐に笑ってみせて、アーベルの胸についた騎士の紋章を誇らしげに見た。
 騎士の制服は濃紺の地に金のボタンがついている。そこに白いマントを羽織るのだが、アーベルは他の色が良かった。これでは褐色の肌と黒髪が余計に目立つ。
 だがユリアンはアーベルの心情などつゆ知らず、瞳をキラキラと輝かせた。

「きっと、お前は歴史に名を残す。なんと言っても、私の騎士なのだから」

 子どもながらにそんな大仰なことを言うユリアンのことを、無知で可愛く思ったこともあった。だからアーベルは、苦笑を零して「そうですね」と頷いた。そしたらユリアンは、たちまちアーベルの心を見抜き、顔を真っ赤にして怒った。

「なんだその目は? 主の言うことを信じられんのか!」

 そう言って、青いリボンのついた立派な箱を、アーベルに投げつけた。

「お前など知るものかっ。それは餞別だ。お前はもう正騎士隊に入れ」

 あわやユリアンの癇癪で、アーベルは近衛の職を外されそうになった。騎士団の中には王宮の警護にあたる近衛騎士隊と、軍に所属する正騎士隊がある。近衛騎士でなければ、アーベルがユリアンに会うことは叶わなくなるだろう。
 急いでユリアンの足元に傅いて許しを請わなければ、今のアーベルはいなかった。
 やっと機嫌を直したユリアンは、改めて角が凹んだ箱をアーベルに渡した。それでも相変わらずそっぽを向いたままだったが。

 子どもながらに、ユリアンは人の心を読む力に長けていた。アーベルはこれを教訓に、彼の前では特に注意を払うことになる。この心が暴かれてしまえば、もう傍にはいられないと思ったから。アーベルは自分の想いに蓋をする代わりに、ユリアンの騎士であり続けることを選んだ。
 だが、それも終わりが近いかもしれない。

 習慣とは恐ろしいもので、太陽が地平線から顔を出し始めた頃には、アーベルも自然と瞼を上げる。
 鈍痛を頭に感じ、目もちょっと霞んでしまう。井戸の水を頭から被って、その場に座り込んだ。その時の自分の顔をアーベルが見たら、もっと落ち込むことになっただろう。
 大切にしていたシルクのシャツが、水滴を弾いていく。これを貰ったのは18歳の時だ。今はあの時より肩幅があるから、少しぴちりと肌に張り付いている。見栄えが悪くても、アーベルはこれを着たがった。ユリアンがアーベルにくれたものだからだ。けれど、ユリアンは何も覚えていない。子どもの頃のことだったし、騎士と言えど、アーベルは所詮従者の1人に過ぎないのだ。
 固執しているのは、自分だけかもしれない。アーベルは急に息苦しくなって、その場でシャツを脱ぎ捨てた。柔らかな生地を、皺がつくほど握り締める。彼の吐いた溜息は、とても重たいものだった。


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