万華鏡
A
『ポン!』
先ほどよりも大きな音がして、彼も蛙の旦那も慌ててそちらへ顔を向ける。
見ると、信じられないくらい巨大な睡蓮の花が水の中から立ち上がり、まさに満開に花開こうとしている瞬間だった。
「こいつはいけねぇ」
旦那はそう言うと、慌てて煙管をしまい込み、ひょいと沼の中に飛び込んだ。そして、
「あんたも急いで菖蒲の茂みの中に隠れなよ。見つかったりしたら大変だ」
「えっ?」
いったい何に、と訊きたいところだが、あいにく尋ねる相手の姿はもうどこにもない。影も形も、声すらもすっかり消えてしまった。
仕方ないので、彼は言われたとおり菖蒲の葉の間に身を隠した。
そのまま息を潜めて睡蓮の開花を見守っていると、花の中から何かがゆっくりと立ち上がってくるのが見えた。
――何だ?
目を凝らして見ていると、その何かはどうやら人間の女の姿をしているらしかった。
さらに、よくよく見れば、女は一糸まとわぬ姿で立っている。
「――!!」
彼は慌てて女から顔を背けた。
罪悪感や羞恥心というものが一気に頭に上がってきて、彼の顔がほてって熱を帯びる。騒ぎ出した心臓をなだめるように、彼は静かに息を吐き出した。
そのほんの些細な振動に、水の表面が小さく波打った。
「……誰かいるの?」
女の声がする。
やばい、見つかったか。そんな風に彼が焦っていると、
「姫(ひい)さま、どうなさいました?」
やはりこれも若い女の声がする。
「誰かいたように思ったのだけど、私の気のせいね」
「そりゃあそうでしょうとも」
「姫さまのお目覚めを邪魔するような無粋な輩など、この鏡沼(かがみぬま)にはおりますまい」
「皆それぞれの分はわきまえておりましょう」
いつの間にか人数が増えている。
好奇心に負けて、彼はそろりと視線を動かした。
[前へ][次へ]
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!