[携帯モード] [URL送信]
鋭利な感情が融けていく



訪れたことのない世界。はじまりも、終わりも見えない長い長い橋の上。おれの前後を取り囲むのは、どこまでも続く大海原。エニエスロビーに向かう道にでもいるのかと思ったが、自分がそんな物騒な場所にいる理由がない。それどころか、どこから歩いてきたのかも思い出せない。ぎこちなくしか歩けず、上手く前に進めない両足を、動かすのを止める。この広い海の上で、何か大切な愛すべきものを失くしてしまった気がして、気持ちがずっと、落ち着かなかった。そのずっとが、一体いつからのことを差しているのか、自分自身でもよくわからない。とにかく、早く見つけなくては、二度とそれが自分の手元に戻らないような気がして、ただ、焦燥感だけが妙に気持ちを駆り立てる。おれは、直感的に目の前に広がる海へ、制服も脱がずに、自分の体を投げ込んだ。そこに落し物がある気がして。

鼓動が早い。プールじゃあるまいし足はつかない、そんなことはわかっている。泳ぎは得意なはずだったが、どうしてか、体の自由が効かずに、普通では考えられないような速度で、静かな海の中、深いところへと沈んでいく。どんどん暗くなる目の前の青い景色に、肺が圧迫される感覚。早く、泳いで上がらないと呼吸が持たなくなる。海面へ出る前に、水圧で、上昇する体力も奪われてしまう。脳は妙に冷静だ。恐怖もない。そう考えているうちにも、太陽の光は遠くなるばかり、しまった、死ぬ、と思った時、体の中に突然に取り込まれる酸素に、は、と息を飲む。

目の前には見慣れた家の天井。胸を突き破るんじゃないかと思うほど強く心臓が内側から胸を叩き、苦しい。上がる息。夢か、とおれは汗ばむ自身の体を感じながら、安堵から深呼吸をした。金縛りのように固まった筋肉が徐々に解けていく。少しずつ夢のなかで見た景色や、なんのために海に飛び込んだのかが、溶け出すように、記憶から滲み、消えていく。ただ残るのは、体に刻まれたあの海の中で味わった水圧の恐怖。おれの体は未だ、酸素を取り込むかのように、深く呼吸を繰り返す。どうやら、連日の事件のせいで、少し疲れているらしい。最悪の目覚めだ。だるい体を起こし、ベッドボードへ背中を預ける。窓の外へ視線を向ければ、曇天の空からこぼれ落ちる雨が、ガラスを濡らしていた。どうりでいつもより、室内が鬱屈とした雰囲気なわけだ。

規則正しく寝息を立てていたローは、おれの動きに呼応するかのように、かすかに身を捩った。シーツを抱き込むその腕にはハートの刺青が存在感を放っている。抱えたシーツの間から覗く鎖骨にも、胸にでかく彫られたハートの一部が見えていた。この男の背中にあるマークも、すべてが、ロシナンテさんを思い起こさせる。蘇るあの人の下手くそな笑顔に、いくらか気分は愉快になった。あの時の珀鉛病の少年が、こんなにも立派な大人になったと知ったら、例えそれが海賊だったとしても、彼はきっと泣いて大喜びするだろう。そんな姿が目に浮かぶ。眼下の黒髪に指を這わしその頭を撫でれば、再び身動いだローの半眼と目が合い、彼は怪訝そうにこちらの様子を伺った。


「……なんだよ、ナマエ」


撫でられる自分の後頭部に気づいたローは、舌打ちをすると、ガキ扱いするんじゃねぇ、と文句を垂れながら、気だるげに体をゆっくりと起こした。目の前にあられもなく晒される胸の刺青。こいつが上を着て寝ていたのは、泊めてやった最初の数日だけで、その後は暑いの一点張りでおれの言うことを聞かず服を着ない。いつか、全裸で人の家で寝始めないか、と一抹の不安を覚えつつ、起きるか、と背中を預けていたベッドボードから体を浮かせる。しかし、そこから降りることは叶わなかった。体の動きを止めざる負えなかったのは、行き先を屈強な腕に阻まれたから。視界の端に映る腕はおれの後ろにあるベッドボードへ手をついた。目前のロー。背中には固い木の感触。こちらを覗き込む瞳は、獲物を狙う獣のようだった。昔みたいに、おれが頭を撫でたことが、余程気に召さなかったらしい。息がかかる程の距離で、ナマエ、と低く囁く声。おれを射抜くその瞳が、なにを訴えているのかなんて、おれにはわからなかった。否、わからない、と自分に言い聞かせることしかおれにはできなかった。少しも目を逸らしてくれないローの双眸に吸い込まれそうになる。こんな顔をする彼は見たことがなかった。目の前の喉仏が上下に動くのと同時に、互いの距離は少しずつじわりじわりと、目の前の存在によって縮まり、おれは背中に当たる固い木にめり込みそうなほど、自分の背中を後方へと押し付けた。今にも唇が触れそうな距離まで近づく顔。

やばい、と、咄嗟に自分の口を片手で覆い、吸い込まれそうな瞳から目を逸らすために、勢いをつけて首を捻り、横を向いた。直後、癪に触ったのか舌を打つ音。ゼロ距離にいる男の、ため息が耳にかかり、おれの髪を揺らす。口元を手で覆ったまま、内側から強く胸を叩く心臓をやり過ごそうと、目を閉じた。息が苦しくて、心なしか、体も熱い。ローがおれに何をしようとしたのか、解らないわけ、なかった。同じ男だから。昔のような扱いを受けると、むきになってくる理由はこれか。いくらか平常の速度を取り戻し始めた心臓に息を吐き、変わらずおれの横に立ちはだかる腕に手をかけ降ろさせる。大人しくそれに従ってくれるローに、目も合わせられないまま、おれは近づき過ぎた距離を離すため目の前の胸を押した。刺青に視線を落としながら。


「…溜まってるなら、娼館でも行きなさいね」

「行かねぇ」


顎を取られ、力に逆らえず顔を上げる。口をついた後に、火に油を注ぎ入れる発言だったと後悔。おれを見つめる双眸は、怒ってるようにも、苦しそうにも見える。ああ、こんな顔もするのか、と頭の片隅で考えながら、おれは再び自分の体を支配する熱をどうにかやり過ごそうと、目の前の彼の様子を観察することに努めた。雨のせいか、触れ合う皮膚が、妙に生々しく湿度を感じさせる。ローは、もう一度、念を押すように、おれは行かねえよ、と不機嫌に呟いた。



鋭利な感情が融けていく



雨の中、傘を片手に今朝の記憶をかき消すために早足で先生のいる病院へと歩みを進める。情けないが、自分の家を逃げるように出てきた。朝からとんでもない事実を知ってしまった。昔のままのローと思って接していたが、向こうはどうやらそういう訳にも行かないらしい。最早、おれの中では確信に変わっている。あの目は、おれを欲しがっていた。というか、この町で会ってから、少しおかしいと思っていたローの行動にもすべて納得がいく。むしろ、気づいていなかったおれがアホだ。ぎゅ、と苦しくなる内臓を振り切るように足を進めると、いつの間にか体は、病院の前に辿り着いていた。傘を閉じ、屋根の下へ移動。院内に入る前に一服していこうと、煙草とオイルライターを探す。近頃、騒がしい日々だと思っていたが、今日は格別だ。紫煙をため息と共に吐き出し、雨で不鮮明になった町を眺める。

背中で病院の扉が開く音。誰が出てくるのかと、そちらに視線を向けるが、誰もいない。開いた扉伝いに視線を下へずらせば、見慣れた孤児のガキが出てきた。よ、と声をかけてやれば、ようやく、おれに気づいたのか顔を上げた少年は、こちらを視界に映しながら、ナマエか、と小さく呟いた。ぼんやりとした瞳。いつもの元気な減らず口は繰り出されない。ガキは、手にしていた傘を開くと、ゆっくりとした足取りで、外へ踏み出し、孤児院の方角へ歩き出した。雨の中で、消え入りそうなほど儚げなその背中が心配になり、思わずもう一度声をかけようとした瞬間、再び後ろの扉が開く。ナマエ君、とおれの名を呼ぶ聞き慣れた声。振り返れば、同じく心配そうに、小さい背中を見つめる先生が立っていた。


「彼、風邪ひいちゃったみたい」


迎えがくるまで待つように言ったのに聞かなくてね、と先生は眉尻を下げながら肩を竦めた。随分遠くへと歩いて行ってしまった背中にわずかに心配を覚えながらも、煙草を揉み消し、先生の背中を追いかけて病院へと入った。この時おれは、声をかけなかったことを後悔するとも知らずに。

お目当ては明日、閉鎖病棟へ移送されてしまう犯人だ。男のいる部屋へ足を踏み入れる。既に病室に着いていた部下たちが寄越してくる挨拶を返しながら、おれはいつも通りベッド横の椅子へ腰を落とした。


「ナマエ大佐、ご報告があります」

「…どうした?」


規律正しく敬礼をしながらも、明らかに焦心した様子の海兵に、嫌な予感がした。聞けば、夕べから、新兵が一名、連絡もなしに行方不明だという。あいつか、と死体を見て酷く怯えていた海兵の姿が、脳裏に蘇る。真面目なあの男がこのタイミングで欠勤はありえない。何かに巻き込まれたと考えるのが妥当だろう。すぐに、町中を探し、何がなんでも見つけ出すように指示をすれば、兵士たちは、すぐに部屋を駆け出して行った。

あいつはきっと見つかると自分に言い聞かせ、犯人へと体を向ける。いつものように、コーヒーを両手に持って、戻った先生は、いまの話を聞いていたのか、眉を潜め、心配そうにこちらへ視線を寄越した。


「ナマエ君…」


心配ではあるが、いまは、自分たちがやれることをやるしかない。おれはオイルライターを取り出し、火を点火させ、明日には話もできなくなってしまう男の目の前に差し出した。






[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!