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掌の中、疼き喚く春の色



ソファに深く腰をかけ、持ち帰った本のページを捲りながらナマエが、その場所で微動だにせず、読み耽り始めてから数時間が経った。紫煙の煙をくゆらし、伏せられた白い睫毛は、頬に薄く影を落とす。ガキの頃はどうとも思っていなかったが、ナマエは男にしては、見目がきれいに整った、美しいやつだった。面倒見も良いせいか、町の人間からも人気が高い。ここ数日この町で過ごしてみて、それはよくわかった。

余程、本の中身に集中しているのか咥えた煙草の灰は、もう間もなく落ちようとしている。なんの虫の知らせか、ちょうどそれに気づくタイミングがよかった。次の瞬間、灰はつながりを失い、重力に従い落下をはじめる。床に辿り着くその前に、灰皿を差し出し灰を受け取れば、こちらの動きに、集中が途切れたのか、金の双眸はおれへ向けられたあと、差し出された灰皿を視界へと捉える。状況を理解したナマエは、煙草を手に取り、ありがとう、とこちらへ告げると小さくなったその吸い殻も灰皿へ押し付けた。それから、ずっと寄せられていた眉間をほぐすように指を当て、深いため息。どうやら読んでいる本の中に、収穫はあまりなかったようだ。近くにあった煙草のケースを手に取り、再び一本口に咥え、火をつける。濁った煙と一緒に吐き出される長い息。伏せられた瞼。灰皿をテーブルへ戻し、無防備な、小さな顔の輪郭を両手で包み込む。なおも皺を寄せている眉間へ、親指を押し付け、凝りをほぐすように優しく指を這わせれば、ナマエは、虚脱感に抗うように瞼を持ち上げ、不思議そうにこちらを見つめた。


「なーにしてんの」

「少し、楽になるだろ」


まあ、確かに、とナマエは、鈍く光る金色の瞳を細め、再び大人しく瞼を下ろした。眉の上を指で押し当ててやりながらその無防備な顔を観察する。やはり、男にしては、線の細いきれいな顔立ち。髪色と同じ色の睫毛は、瞼の淵を隙間なく埋めるように、整列している。ナマエは、顔を撫でられるのが気持ちいいのかゆったりと肩の力を抜きながら、手に持っていた煙草を灰皿へ置いた。

自分でも無意識だった。あまりに無抵抗で、無防備に晒される滑らかな白い額へ思わず、唇を寄せる。唇に当たる柔らかな皮膚の温度。細い猫毛の前髪が、おれの鼻先をくすぐった。下からは、呆れたように、おーい、とおれを咎める声。そっとその額を離してやれば、唇が当たった部分を指で抑えながら、ナマエは、まったく油断も隙もないな、と不機嫌そうに皮肉を寄越す。おれからすれば、隙だらけなのはナマエの方なのだが。


「…で、さっきからなにを調べてんだ」


こそばゆかったのか何なのか、ぐにぐにとおれの唇が当たった皮膚を指で押さえながら、ナマエは、考え事をするかのように、嘆息をこぼした。それから、今日、自分自身の目の前で起きたことを、隅々まで思い出すかのように、ぽつぽつとゆっくり、呟く。それはまるで、自分自身の頭の中を整理してるようだった。

ナマエの隣に腰を落とし、投げ出された本を手に取れば、表紙には精神疾患の文字。本を開き目次に目を通せば、反社会性パーソナリティー障害、いわゆるサイコパスについての論考がずらりと並んでいた。どちらかと言えば、リアリストのナマエには珍しい選択の本である。おれの隣の銀髪は、ぽつぽつと何かを思い浮かべながら、言葉を落とした。

殺人犯たちに共通点はない。けれど、殺害の方法は皆、同じ。被害者にも生前の共通点はない。けれど、全員、十字の傷跡持ち。殺人犯は、なぜか犯行前後の記憶がない。それから、と言い淀んだナマエは、手に持っていたオイルライターをカチン、と開けると点火させた。ゆらゆらと揺れる橙の炎。思案するように、カチン、カチンとそれを繰り返す。なにか一つ、ナマエなりに、辿り着いた答えがあるのだろう。しかし、自分の出した結論に納得がいかないのか、言い淀みながら、眉を潜めこちらを見つめる金色の双眸。それは、辿り着いた自分の意見を、否定してくれとでも言うかのように。しかし、おれにはナマエが言おうとしていることがわかる気がした。今の話を聞いて、きっと同じことを考えていたからだ。


「暗示をかけられたぐらいで人間は、人を殺せるのかね…」

「あぁ、不可能ではねぇな」


おれの回答に、少し面食らったナマエは、それでも、腑に落ちない様子で、点火したライターの揺れる炎をまじまじと眺めた。そもそも、暗示や催眠術といったものは、本人のモラルに反する内容をかけても、実行はされないはずだ。ただ、苦しみから解き放ってやるために、手足だけを切り取ってやれ、とかそんな掛けられ方をすれば、話は変わってくる。もちろん、相当腕の良い術師であることは間違いないが。人間の脳は意外と単純にできているのだ。

ナマエ、と名を呼べば、ゆらゆらと揺れる炎から、おれを視界に捉える金色の瞳。こちらをじっと見つめる、その双眸を片手でゆっくりと覆う。抵抗はしないものの、怪訝そうにおれの名を呼ぶ声。相変わらず隙だらけだ。大人しく、暗闇の中にいるナマエの皮膚の温度を手の平に感じる。人間の脳が簡単に騙されることを証明するのは、案外簡単だ。


「…口の中でレモンを噛み潰す想像してみろ」

「ん……酸っぱい」



掌の中、疼き喚く春の色



風呂から上がるとナマエは、さっきよりもすっきりとした面持ちで、ソファに腰をかけ、本を読んでいた。どうやら少しは暗示の件を、真摯に受け止めて、きちんと調べる気になったらしい。リビングへ足を踏み入れたおれに気づいた銀髪は、緩く笑みを浮かべると、おれを自分の座っているソファへ手招く。片手にはドライヤーを持ちながら。久しぶりに、笑ってる顔を見た気がするなんて、考えながら、誘われるがままにソファへ腰を落とせば、代わりにソファを立ちあがったナマエは、おれの正面に立った。細い指がおれの濡れた髪を、掻き分けるように撫でる。心地よい暖かな風と共に。どうやら機嫌も浮上したらしい。髪を撫でられるたびに、ぞわぞわと背中を駆け抜けるこそばゆさと、解れる緊張。その、気持ち良さに、下を向き、目を閉じれば、ナマエは昔を思い出すなあ、と小さく懐かしむような声で溢した。

暖かな温度で、血の巡りがよくなる後頭部に、急激にやってくる眠気に抗いながら、そんなこともあったな、とあの時はまだ自分よりもでかくて、頼り甲斐のあった手の平を思い出す。お互い風呂上がりのせいか、石鹸の香りが充満していた。本当に、人間の脳は単純にできていると思う。おれは、ついさっきナマエの額に触れた唇が、熱を持ち始めるのを感じていた。皮膚に触れただけのあの一瞬の感触に支配され、それを思い返すだけで満たされる自分がいる。いまおれの髪に触れる指先ですら、おれには今後、ナマエの存在を思い出す時のきっかけになるのだろう。この、石鹸の匂いも、生温い風も、すべてが。

乾かし終えたのか、ドライヤーの風は止み、おれの後頭部を包み込むように撫でる手の平。それすらも、昔、経験したことを不思議とこの体は覚えている。心地良い余韻に浸りながら、目の前の細い腰を抱き寄せれば、ぴたりと、固まった体。突然引き寄せられたことに驚いたのか、どこかぎょっとした様子でおれを見下ろす瞳と目が合う。心なしか警戒されている気がしないでもない。いや、唖然としたいのはこっちだ。


「…いつまでも、ガキ扱いしてんじゃねえよ」


ナマエは、おれの後頭部を撫で付けて、そんなこと言われてもねえ、と呟いた。あの、困ったような下手な笑顔を浮かべて。


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(…ベッド行くぞ)
(…今日くらいソファで寝てみたらどうだ?)
(断るに決まってんだろ)
(はぁ…?)





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