56
 健悟が座る先は勿論蓮の目の前、四日ぶりの恋人を思う存分直視すればその瞳はすっかり不安に揺れていて、健悟はつい漏れてしまいそうな舌打ちを精一杯飲み込んだ。
 舌打ちの矛先は蓮ではない、やりきれない感情をぶつける相手はまだ見ぬ歯型の人物であり、自分にそう言い聞かせるために健悟は蓮の右手を手にとった。
 己の左手で静かに引っ張ったのは他でもない、蓮の右手の小指に付いている指輪を見て安堵するためであり、指先、関節、手の甲を親指でそっと撫でながら健悟は声を紡いでいく。
「……………………ーーーごめん、」
「、」
 くしゃり、苦々しく顔を歪めて呟かれた一言は今し方蓮自身が放とうとしていた言葉であり、タイミングを見計らい何度も頭の中で復唱していたからこそ、思考を読まれたのかと有りもしないことを思ってしまった。
「……は?」
 そんな馬鹿みたいな考えを振り払うかのように、勢いに任せて蓮が口を開けば、気まずそうに健悟の唇が揺れていた。
「……ごめん、うそ、……嘘ついた」
 繰り返された謝罪とすっかり俯いて拗ねているような健悟の雰囲気からは先程までの荒みは感じられず、一気に変わった部屋の雰囲気についていけない蓮は眼を丸くしながら健悟の言葉を待つことしかできなかった。
「………………分かってるよ、蓮、冗談だっつってたし」
「、」
「つかそんなことしないって分かってんだけど……」
 くしゃくしゃと透き通るような銀の髪を掻き混ぜながら、健悟は大きな溜息を吐いて、今にも泣いてしまいそうなほど脆そうな表情を見せている。
「わかってるけど、……ヤなんだよ」
「や、っておまえ……」
 子供かよ、と続けようとしたけれど、先ほど言われた健悟の仮定に全く同じ感情を覚えてしまったことを思い出して、蓮は思わず語尾を濁した。
 後に続く言葉もなく、きゅっと唇を結んで状況を整理していると、健悟の腕が、まるで縋るように蓮の小指をぎゅうと握ってくる。
「……これだけ一緒に居るんだから、分かってるよ、」
 そして拗ねたようにぽつりと話を進める健悟の様子はやはり大きな子供のようでもあり、会えなかった四日間、たったそれだけでこんなにも一言一言が愛しくなるなんて思いもしなかった。
「なんだかんだ蓮は素直だから俺との約束だって守ってくれてるし、俺が蓮を疑ってるってことも、ないよ、ほんとに。蓮が悪くないのは分かる、……けど、相手がマジでむかつくだけ。だから……ごめんね、八つ当たりした」
「………………」
「信じてるとか信じてないとかじゃないんだよ、ふつうに、やだし、つか、心配だし……俺のが大人だって分かってっけど、やっぱ、……あーーーー……だめだ……ごめん、」
 うっすらと色づいている耳を隠しながら恥ずかしそうに頭を抱えて告げられる一言一言こそがきっと健悟の本心なのだろう、負の方向にここまで感情を顕にする健悟は珍しく、珍しいからこそ、自分の行動ひとつでそこまで健悟の感情を揺さぶることができるのかと嬉しさから鳥肌が走ってしまった。
「…………信じらんねえから、あんなに痕ばっかつけてたんじゃねえのかよ」
「え、」
 ぽつり、今まで飲み込み続けた筈の感情が、信じられないくらいにすんなりと吐き出されてしまったのは、本音で話す健悟を見て、少しだけ張っていた緊張の糸が解けたからなのかもしれない。
 何も疑わずに、わかっていると、そう告げた健悟。ずっと根底にあったその感情への問いに、目を伏せながら蓮が呟けば、一瞬の間が二人の頭上を通り抜けた後、健悟は観念したかのように己の項を掌で擦る仕草を見せた。
「……あー……あれは、まあそりゃ俺のもんだって言いたいっていうのはあるけど信用とはまた違う話だし、つかぶっちゃけ、つけたときの蓮の顔がすげえかわいいから、つい……って、冷静に言うのも恥ずかしいけど」
「!!!」
 相手が離れることはないと頭では分かっているけれども、心の何処かでは自分以外に心を許して欲しくない、離れないで欲しい、武人曰く恋人ならば当たり前らしい独占欲はいやでも理解できるからこそ、いまこの瞬間、健悟が言いたい事はきっとそういうことなのだろうと分かってしまい、今迄ふとした瞬間に湧き上がっていた不安という名の感情が一気に離散した気すらした。
「なんだよ……俺を信用してないわけじゃ、なかったのか……」
「はぁ? んなはずないでしょーが」
 安堵する蓮の目の前で、呆れたように返答する健悟は、そんなこと思ってもみなかったとでも言うように眉を寄せている。
 第三者の前で脱ぐ機会を奪うための痕、浮気できないようにと不信感を込められた痕だと思っていた朱は、随分と方向性が異なっていたらしい。
「…………ていうか、そんなこと思って飲み込んでたほうがショックです、俺は」
 ぼすん、突然伸びてきた腕の先に真面目な表情を見たのはたった一瞬、口角を歪めた健悟が蓮の目の前に現れた次の瞬間には、広いソファの真ん中、狭いスペースでその腕の中に捉えられてしまった。
「単純に、すごい好きだなーって、それだけなのに」
「…………」
 まるで存在を確かめるかのように、ぎゅうと体温を移されたあとで、ぽんぽん、と背骨を叩かれたのは数十分ぶりのはずだったのに、胸中を吐露したおかげか、すんなりと力を抜いて頭を預けることができた。
「それはさあ、信用とかじゃなくてー……まあ、牽制って意味ならあったけど」
「牽制、?」
 意味がわからない、と顔を上げた蓮の真上には健悟の頬、随分と近い位置に居た彼が体勢を整えて、こつん、わざとらしく自分の額と蓮のそれを優しく触れ合わせた。
 お互いの髪が目にかかりそうで邪魔だと蓮が一瞬目を細めると、その慣れていない仕草に健悟は口角を上げてから、傷み始めている蓮の金色の髪を二三度梳いて蓮の耳に前髪を掛けてあげる。
 少し距離をとればおでこが全開になっている蓮に可愛いと心の中でのみ呟いて、先を煽るような視線に委ねて小さく溜息を吐きながら先を続けた。
「……だってさあ、四日も離れるんだよ?」
「え?」
 まるで幼い子供のような姿、押しつぶせば大きな音が漏れそうなほどに頬を膨らませて、蓮の肩口にぐりぐりと自分の額を押し当ててくる。
「え、ってなに? 四日だよ? その間ずーーーっと俺以外の奴と一緒なわけでしょ? しっかも俺以外の男と風呂入るかもしんないんだよ? ていうか入ったんでしょ? 手出すなって意味で牽制して何が悪いの? そこは悪くなくない?!」
「………………おまえなあっ……!」
 まったく悪びれることなく一息で言い切った健悟に対して、まさかそんな馬鹿げた思考回路からだったのかと呆れながら後頭部を殴ると、耳の横から情けない声が発されたあと、余計に背中に回る腕の力が強くなってしまった。
 けれども、逢えなかった四日分の充電をするように離れない体温をあえて突き放す理由もなく、漂う香水にほっと一息吐いてしまうあたり、結局は自分でも望んでいた安らぎだったのだと受け入れることしかできなかった。
「……れーんー」
「……なんだよ」
 甘えるような健悟の声に、絆されてなるものかとわざとムッとした声をつくるけれども、手中にある体温にすっかり気を良くしたのか、健悟の声音はやけに穏やかですぐにでも鍍金が剥がれてしまいそうだった。
「写メとかないの?」
「……は?」
 しかし感傷に浸る余韻すらなく降りてきた言葉には嫌な予感しかせず、苦々しい顔を返すも、分かっているのかいないのか背に回っていた腕を蓮の鎖骨に寄せ、ぐいっ、親指の腹で抉るように歯型を撫でられた。
「……こいつの」
「あー……」
 優しい声音に穏やかな笑顔、その下に隠れる心情だけは相反するような忌々しさが伺えて、逆らえばどんな手段に出るかも分からぬような雰囲気を醸し出していた。
 スマートフォンの奥底に眠る年下に心当たりはいくつもあって、条件反射で素直に目を逸らしてしまったのがいけなかったらしい、その一瞬をも見逃さなかった健悟は蓮の両肩を握りしめて、驚いたように声を荒げた。
「あんのっ!?」
「うるっせえよ!」
「……あるんだ……!」
「………………」
 悲愴に満ちた表情で凝視する健悟に、おまえが聞いてきたんだろ、と言ってやりたかったが、あまりにも打ちひしがれているために発することは憚られた。



56/60ページ

[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!