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「………………」
「………………」
 湯気漂う浴室とは真逆の温度を保つ脱衣所、双方の無言に満ちた空気の中、先に動いたのは、蓮の肩口に顔を近づける健悟のほうだった。
「……カタチでけえね、男?」
 前から右から左から、苦虫を噛み締めたような顔を携えながら、冷静に唇を尖らせる。視線の先は蓮の肩口、消えぬ前歯の痕だった。
絶対にメディアには流せないような顔を視界に入れたのは蓮にとっても大分久しぶりのことで、健悟の覆う真っ赤な怒気に負けてしまいそうだと思う。
「…………女の子がこんな噛み付くかよ」
 悪いことなどしていないだろうと潔癖を主張した瞬間、ぴくりと反応した眉に、先月放送された刑事役の彼を思い出す。犯人を追い詰めるかのような表情で顔を近づけ、冷酷に相手の非をただ責める、あの刑事役を。
「酔っ払ってたら何するかわかんないでしょ、大学生なんて」
 舌打ちを堪えたような表情で言い放った健悟にむっとするのも仕方なく、負けじと蓮も相手を見上げて言い返す。
「イヤミくせーんだけど」
「イヤミくさく言ってるんだけど?」
「………………」
 第三者が居れば止めに入りそうなほどに重苦しい空気だからこそ、一旦冷静になろうと、蓮が溜息を吐く。
 そのまま外そうとしていたベルトに手をやって、湯につかってから一度冷静になって話し合いをしようと思っていた矢先、目の前にいる蓮限定であまりにも狭量になってしまう男から、ついにチッと舌打ちが漏れてしまった。
「……冗談って言ったわりに、すげえ隠したじゃん」
「…………は?」
 ぼそり、吐き出された言葉は小さいながらも換気扇に吸い込まれることはなく、空を伝って蓮に届いてしまった。
「……なにおまえ、マジだとでも思ってんの?」
 冗談、という真実を見失い嫌味たらしく攻め立てる健悟に苛ついた蓮は、健悟以上に抑揚をつけて聞き返す。
「俺がなんかしたって?」
 断じて白だと主張できるからこそ、真っ直ぐに健悟を見ながら言い切るけれど、一方で物証を捉えた健悟の不機嫌は火を見るより明らかに急下降していくのみだった。
「じゃあ、なんでそんなに焦ったの?」
「……おまえがそんな風に怒ると思ったからだろ」
「やましくないなら焦んないでしょ?」
「おまえだって、もう少しオレのこと信じてるんだったら怒んねえんじゃねえの!」
「、」
 しまった、と思ったのは喉に痞えていた言葉が反射的に溢れてしまってからだった。
 何を言っても攻め立ててきそうな健悟の言い方に苛立って、最近感じていた本音をつい吐露してしまった。
 本題を棚上げして八つ当たりした自覚があるからこそ、やってしまった、と蓮は己の髪をくしゃりと掻き崩す。
「……笑って流せよ」
 重すぎる空気に耐え切れずぽつりと漏れてしまった言葉は、自分が吐き出したかったトーンよりも幾分か重く空に触れた。
 図星をさされたからなのか、最早冗談で済ませることのできる話題でなくなっているからなのか、健悟からの返事は一言とて返ってくる気配がない。
 あまりに続く沈黙に耐え切れずいっそ力づくで健悟を脱衣所から追い出そうかとヤケになる直前、ぽつり、怒りを押し殺したような表情で健悟の白い歯が視界に入った。
「…………明日」
 ぽつり、心底軽蔑するかの如き表情とともに言葉が漏れる。
「ココに」
 そして健悟は自分が着ているシャツの襟口を開いたあとで、ぐっと首を右に倒した。
 頻繁に女性誌を騒がしている鎖骨が視界に入ってきたが、メディアで定着しきっている黒髪の影はすっかり隠れ、自分だけが知っている灰色が、鎖骨の少し上まで伸びていた。
 ここ、と称された鎖骨に蓮が言われるままに目をやると、段々と健悟の眉が釣り上がり、言い聞かせるように、責めるように言葉を続けていく。
「……痕をつけてきたら、おまえはそれでも笑って流すのね?」
 まるで明日にでも実行してきそうな鬼気迫る瞳を隠さずに、蓮に告げる。
 真っ直ぐに見つめてきたまま瞳を逸らさない健悟は、まるで、想像しろとでも言うかの如く冷たく言い放った。
「、」
 健悟と付き合うようになってから、一度だけ直視したことがある。連続ドラマのワンシーンで、主人公である健悟の上に覆い被り自らキスをしている女性の姿だ。
 健悟以外のラブシーンだったら、何事もなく平然と見れるというのに、ただ話しているだけならばいくらでも誤魔化せるのに、それこそ相手が綺麗な女優だからこそ健悟にそこのポジション変われとすら思うのに、直線的な触れ合いを目撃したら、もう無理だった。
 利佳にほぼ無理矢理見せられたシーンだったけれども、仕事だとはいえ目を逸らしてしまったことを覚えている。
 仕事という前提がありながらもテレビから目を逸らしたというのに、自分の知らないところで、知らない人間と、肌に痕を残すほど近い距離で過ごしている健悟を想像するだけで嫌悪感が走った。
 相手が誰であろうと関係はなく、純粋に、いやだ、とはっきりとした感情が爪先から駆け巡る。
「………………」
「………………」
 無意識に蓮が唇をきゅっと噛んだことを見逃さなかった健悟は、既知の答えを聞くように、それでも、と至って冷静に唇を開く。
「……蓮は、冗談、で許すつもり?」
「………………」
 あまりにも真剣に向けられる瞳に、眼を逸らし誤魔化すこともできない。
「おまえが冗談だからって笑ったところで、俺も、『そうなんだ』って笑うと思った?」
「、」
 こわい、と思った感情は間違いではない。怒っている。そう思った。
「ねえ」
 場にそぐわぬ甘くねっとりとした声音が脱衣所を這うものだから、蓮は思わず鳥肌を立てながら息を止めた。
「着て」
「…………」
 短い一言とともに手渡されたのは、先ほど洗濯機の横にある籠に投げ捨てたシャツだった。
 タバコとお酒の臭いがして、まるで他人のそれのようなシャツを健悟は躊躇わずに蓮に渡してきた。
 そして無言で脱衣所のドアを開いて出て行った健悟は、言わずともついてこいと背中が語っていて、リビングに向かって歩く足音を遠くに聞きながら、蓮はぐるぐるとまわる頭を整理しながらシャツを着た。
 ふわり香るタバコの臭いに顔を顰めて、出てきた言葉は、形勢逆転という何の得にもならない四文字だった。
 何度か怒っている健悟に遭遇したことはあったけれど、何考えているかわかんなくて、ただ、こわい。
 高校生のときにも一度目の前で経験している。健悟が家に泊まりに来たばかりの、俺が夜中に羽生の家から帰ってきた、あのときみたいだ。
「…………」
 ぺたぺたと裸足でフローリングを歩くけれど、いつものように肌触りの良いスリッパを持ってきてくれる過保護で優しい恋人は今は居ないらしい。
 テレビもついていない静かなリビングでソファに腰を下ろしている健悟は、蓮の前だからだろうか、苛立ちからタバコを吸うことを我慢しているようにも見えた。
 ソファに寝転ぶわけでもなく机に脚をあげるわけでもなく、ただ不機嫌だけを露にしながら、ソファの真ん中に座っているのみだった。
 蓮がソファに近付いても動こうとしない健悟を見れば、一瞬、隣りに座ることすら躊躇ったけれども、ひとり床に座るのも可笑しな話だろうと健悟から一人分離れた位置に腰を落とした。
 成人男子一人の重さが加わっても音すら鳴らないソファは部屋の静かさを更に強調しているようで、余計に居心地が悪かった。
 一緒に住むようになってからというもの、蓮が一方的に怒ることはあっても、健悟がここまであからさまに機嫌を悪くすることはなかったからこそ、打開策が見つけられずに不安に駆られてしまう。
 ……四日ぶりに逢えて、さっきまですごく楽しかったのに。俺が怒って健悟が謝って、いつもどおりだったじゃん。好き勝手やってた健悟に怒ってたのにはずだったのに、ぜんぶ冗談で済ませられたのに。
「…………」
 ふと脳裏を過ぎった諸悪の根源は記憶でもなお悪戯に笑んでいて、この状況を巻き起こした張本人から落とされた軽口がを思い出した。
『たまにはケンカしちゃえばいいのにぃ〜』
 笑いながら毒を吐く恭祐は純粋に楽しんでいたのだろう、本当に喧嘩するとは思っていなかったに違いない。
 ただの冗談、それだけで済ませるには、相手が悪すぎた。
「…………洒落になんねえよ、バカ……」
 殆ど声に出さずに咥内で、空気を吐き出すようにぽつり吐露する。
 ちらりと健悟を見れば、相変わらず何を考えているのか分からない様子で眉を顰めていたけれど、蓮の視線はその先、健悟の顔からするすると下に伸びて今はシャツに隠されている鎖骨に視線を泳がせた。
 先ほどの健悟の言葉、健悟が身体に痕をつけてきたらと、ありもしない仮定を反芻させる。
「………………」
 冷静になって考えると、いやだ、と心底思った先程までの感情を通り越して、ふと思いついたことがある。
 もし自分だったらーーー話も聞かずに家を出て、武人の家に転がり込んでるかもしれない、と。
 勝手に誤解して勝手に信頼できなくなるのは、もう高校生の頃に通り過ぎた道だったはずなのに、いざその時になると我を忘れて逃げ出してしまいそうだ。健悟だって状況が飲み込めないはずなのに、話を聞いてくれるだけ良いのかと思ってしまう。
 ーーーここにいるってことはきっと、それだけで、……俺を少しでも信じてくれてるってことなのかもしれない。
「…………けんご、」
「…………」
 なに、と言葉が返されることはなかったけれど、普段よりも細く凄められた視線と凄みを利かせた態度に怯みそうになりながらも、健悟がいる方向へと体勢を整える。
「……えー、……っと、」
 名を呼んだものの、謝罪の三文字を舌に乗せるべきか否かが悩まれた。
そもそも何の謝罪なんだ、謝るってことは何かあったって認めることにならないか、何も悪いことなんてしていないけれども確かに隙があったのが悪かったのかもしれない、恭祐に対して完全に油断していたのも事実だったーーーそんな風に考えれば考えるほど蓮の表情にも翳りが見えてきて、すっかり俯いてしまった蓮を、健悟は横目でちらりと視界に入れていた。
 唇が真っ白になるほど真一文字に噛みながら、慎重に言葉を選んでいる。何の言葉を続けようかと蓮が焦燥している様子がはっきりと見て取れるからこそ、反省に近いその表情受け止めて、健悟はひとり、大きな溜息を吐き出す。
「…………………………はぁ」
 そして、びくり、必要以上に身体を揺らした蓮の近くへと、ぽっかりと空いていた一人分の隙間を埋めるために立ち上がった。



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