55


* * *


 ただいま、という健悟の蕩け切った声が響いたのは五十嵐家の玄関の扉を開けた瞬間、蓮がその挨拶を繰り出すよりも先の出来事だった。
 後ろにいたはずの人物に発するはずだった言葉を取られてしまったけれども、蓮はどこか嬉しそうにおかえりの言葉を返す。それに対して目元を下げる健悟が居るだろうことは想定の範囲内ではあったけれども、実際にその表情を見れば此方の顔が何故だか熱を持っている感覚に陥ってしまった。
「……あー……部屋行く?」
 いつもは脱ぎ散らかす靴を足の先で整えて、健悟の眼を見れぬままに蓮は呟く。
「うん、行く」
 それに戻ってくるのは当然了承の返事で、そのやり取りを見ていた利佳は拳を握りながら健悟を蹴り付けていたけれど、健悟は微塵も気にすることは無く、蓮だけを見ながら家の中へと脚を踏み入れた。
 久しぶりに入る五十嵐家、たかが数週間ぶりだというのにとても懐かしく思えるのは、二度とこの家の敷居を跨ぐことはないかもしれないと弱気な部分があったからなのかもしれない。
 階段を上り行く薄い腰に抱き着きたいという確かな欲求を腹の底に抱えながら、健悟は笑みを隠せぬままに蓮の後ろを着いていく。その際、利佳にはあたしが居ることを忘れるなと何にも勝る脅し文句をいただいたけれど、曖昧な笑顔と了承だけを返すことしかできなかった。だって、もうだめだ、いますぐにでもその手に、顔に、腰に、手を伸ばしたい自分で溢れてしまいそう。
 ―――パタン、蓮が部屋の扉を締めれば完全なる密室が出来上がった。カーテンの締まっている窓に近づいてはそれを開き、窓を開き、夏の暑い日差しと風が部屋の中に入ってくる。すっかり明るくなった部屋を見てこれは自分の係だったと、つい数日前まではこの部屋で蓮の二人きりの場面などいくらでもあったのに、と思い出すことが出来た。
 そうだ、何度もあった、蓮と二人きりと云う状況。それなのに、この部屋で二人きりになったというそれだけでどこか警戒しているかのような、根柢の気持ちに見て見ぬ振りをしているかのようなムズ痒さが身体を駆け巡っては、何から話せば良いのかと、今だからこそ聞きたいことも話したいことも無限にあるのだろうと感じた。
「、いつ帰んのおまえ」
「ん? 今日の夜だよ」
 後ろから掛けられる声はどこか戸惑いが混じっている気がする、ふう、と一息吐きながら懐かしい二段ベッドの下段に座り込んだ蓮を見て、無防備だと、そう思いながらゆっくりと近づいていく。
「あー……マジか、仕事?」
 少しだけ困ったような、寂しがっているような、見上げてくる瞳とようやく真っ直ぐ交差することが出来た。ああキスしたい、という願望だけは一旦自分の中に留めておいて、蓮の眼を見ながらその隣へと腰を下ろす。狭く暗い二段ベッドの下、二人きりの秘密基地のような懐かしい空間が嬉しくて、つい頬が綻んでしまうことも仕方のないことなのだろう。
 仕事? と聞いてくる双眸はどこか残念そうで、言葉にせずとも自分を求めてくれている感情が垣間見られた。それだけで、なんだかもう、―――充分だ。
「うん。……ていうかこうなるって思わなかったから、仕事入れるだけ入れて、忘れちゃおうって思ってたのに。……明日からすっげぇ忙しいんだって、俺」
 新しいCMに単発ドラマの収録、雑誌や企業のモデルは勿論のこと、PVの撮影だってある。はぁ、とベッドの上で溜息を吐くと、自分の行いが馬鹿みたいに思えて仕方がない。蓮を忘れようと自らのためを思って入れた予定に首を絞められる羽目になるなんて、嬉しい誤算だとは思いつつも、これがなければ……と思ってしまう理不尽な自分も否めないからだ。
「……最悪だ、こんなことになるんなら入れるんじゃなかった……」
「何言ってんだよ、働け」
 はぁ、と溜息を吐きながらベッドに倒れ込むと、その姿を馬鹿にするように蓮は口角を上げた。柔らかいトーンで投げられた小言すらも久しぶりで、じわじわと喜びにも似た感情が胸を過ぎっていく。
「つーか、あー……」
 ガシガシと髪の毛を掻きながら目を瞑ると、段々と蘇ってくる蓮の笑顔、それが目の前に存在するだろう現実が到底信じられず、泣きそうなまでに嬉しいと、健悟は幸せを噛み締めるように溜息を吐いた。
「んだよ」
「や、……来て良かったなーって、マジで」
「……うぜー」
 随分とにやけてしまっている顔を隠す事無く露呈すると、その健悟の表情を見た蓮は反射的にとも言うべき速さで健悟の顔から眼を背けた。
 蕩けた表情を目にした瞬間に顔を隠すように手の甲で押さえた蓮は照れてますと空気で言っているようなもので、健悟はその楽しそうな様子に、寝ていた身体を無理矢理に起こして蓮のもとへと近寄っていくことを決意した。
「、……なんか、むずむずすんだけど」
「嬉しさで?」
 どこか落ち着かなそうな表情で、声音で、視線で、言わずとも羞恥をその瞳に飼っているような蓮の姿を見れば此方のテンションさえも否応なしに上がってくる。
 調子に乗って蓮を揶揄れば、そのにやにやとした表情を覚ってか近づく健悟を押しのけるように手を伸ばして拒否された。
「……調子に乗んなよてめぇ」
「えー、そうのくせにー」
「…………」
 それにも負けず、健悟が、うりうり、とぴんと伸ばした人差し指をぷにぷにした蓮の頬に押し付けると、予想外に反応が返って来なかった。
 ふざけんなと激昂する姿は想像していたものの、こんな風に照れるように顔を逸らす姿は想定外、自分自身が想っているほどに好いてくれているのでは、と万が一にもありえない仮定すら飛び出してくる始末だ。かわいい、と身体中の力が抜けそうになっても仕方がない気がする。
「……だってあれだよ? 今朝まではなんかもう色々おかしくてさ、蓮のあの写メ見て、もしかして俺のせいなんじゃって思って……どうしたら良いのかなって、どうしようって、マジすっげー悩んでたのに……」
 真面目な顔をして覗き込んだ携帯電話に映るのは顔面蒼白と云っても過言ではない蓮の表情、明らかに具合の悪いそれが心配で来てみたこれはただのエゴにも近いものだったのに、まさか、……こんなことになるなんて、こんなことに、なれるなんて。
「どうしよう、こんなん」
 ぽつり、呟けば困ったような顔をして蓮に「なにが」と尋ねられたけれど、健悟が出す答えなど初めから決まっていた。
「嬉しすぎて死ぬ……」
 酷く甘えた声を出してしまった自覚はある、それでもこんな声は蓮以外の人物になどは聞かせはしない、特別な蓮だからこそ、自分に持てるすべてをあげる。
 縋りつくように本気のトーンで口にすると、それと同時に手を出したくて、薄いお腹に手を滑り込ませたくて、腰に腕を回り込ませたくて、邪念ばかりが頭の中を走って行った。
「…………知るかよ」
 そんな健悟の煩悩に満ちた脳内も知らぬまま、蓮は、馬鹿が、と呆れたように笑った。
「真顔で言うなアホ」
「……照れてる?」
「、」
 ぷい、と顔を背けた蓮に容赦なく健悟が突っ込むと、狭いベッドの上、到底本気とは言えない強さながらも、げしっと踵で蹴られてしまった。
「照れ隠し?」
「……しねまじで」
 少しの間が証明するのは肯定という名の本音、更に深い抵抗としてぷいと顔を背けられてしまったけれど、そんな挙動の一つですら自分に向けられたものだと思うだけで嬉しい以外の言葉が出ない。
 あー……この感じ、……久しぶりだ。




55/60ページ

[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!