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「だからさ、俺が居なきゃすげー幸せに暮らせんの。まぁ分かってたことだけどさ、これは」
「幸せって……」
「前おまえも言ってたろ、彼女がどうとかって」
「…………冗談だとも言った」
「うん、言った。だからさ、分かってはいたんだよね。今までそういう相手が居たっていうのも、これからできるかもしれないっていうのも。俺が蓮と居たかったからずっと見ない振りしてただけ。彼女なんか作っても、俺んとこ攫って一緒に居れれば良いってそう思ってたし。……軽蔑した?」
「今更」
 寧ろそれだけの勢いが無ければ現状は無いとすら思い、利佳は断言する。そんな自信に溢れる利佳の表情に苦笑しながら、健悟は再び言葉を紡いでいく。
「うん。……でもさ、実際蓮に逢ったらやっぱ、それがあいつの幸せなんかなーって思っちゃうわけ。あいつ巻き込んでヒト一人の人生変えてさ、道外さしてまで幸せって言えんのかなって、それ」
「…………」
「オネーチャンも見たいっしょ? 可愛い甥っ子か姪っ子」
「…………」
「……なーんてねー」
 からかうように言っても寂しそうな瞳は変わらない。ストレスで増える煙草の本数と反比例するように、健悟の明るい表情を見なくなったと思う。蓮の傍に居た時とはまるで別人で、健悟ではない虚像を見ているような、職業柄画面越しに一本の映像を見ているような気さえしていた。
 今の健悟が望む結果を誰よりも望んでいないのは紛れも無い健悟本人だというのに、そんなに苦しそうな顔をして、なんて台詞を吐くんだろう。
「……あんたそれで我慢できんだ?」
「できるよ」
「そんくらいの、」
「そんくらいの気持ちだったとかじゃなくて、今なら応援できるくらい、蓮に幸せになって欲しいんだって」
 問おうとした言葉は既に予期されていたかのように上書きされた。
 断言すると同時に健悟が見ている場所は利佳の後ろ側、先程蓮が出て行った場所であり、誰も居ない場所を見つめるその瞳が誰を映しているのかは聞かずとも分かった。
「……超勝手。最悪。ひどいね、勝手な奴」
 なんとなく、あとに続く結末が分かった気がして、利佳は口にする。こんなに蓮を動かしておいて、此処まで来て、そういうこと言うんだ。このバカは。
「勝手だよ、勝手だからすげーいっばい巻き込んで此処に居るんだもん、おれ」
 しかし、開き直るかのように紡がれた台詞の裏には健悟の仕事が隠されていて、健悟本人が撮影場所を無理に頼み込んだということを思い出した。
 昼夜問わず忙しくなった最近は兎も角、来たばかりのうちは拘束時間も短かった事から、事前に幾つかの規定を結んでの仕事だったということも予想が出来る。仕事にプライベートを挟んでしまうほど、健悟にとっての唯一だった約束。今健悟の独白を聞くまでは何の確信も無く信じきっていた約束、それが、時間の経過と共に流れて行く砂時計のように、ゆっくりとでも確実に崩れていく音がする。
「まあ、多分一生好きだろうけどね」
「…………」
 愚弟に関して諦め混じりに呟く健悟の仕草を想像した事は無く、それが目の前で行われていくことが信じられない。
 気持ちは離れていないはずなのに、頭が、行動が、確実に距離を帯びていく。
「……あたし、あんたの考えに軽蔑した事は無いけど、いまあんたがしようとしてることに、すごい幻滅してる」
「知ってる」
「何笑ってんのよっ」
「や、べつに笑いたくねえんだけど。なんか、どうにもできねぇと思えば空しくなるし、なんで分かってくんねえんだろうって思えば情けねえしで、利佳の幻滅っつーのも最もだなって思って」
 鼻で笑い飛ばされた気がしたのは故意ではなく、諦めと自嘲が入り混じったものだった。
 健悟の頭に過ぎるのは、数日前、ベッドの上段で起きた出来事。
 後悔に押し潰されそうになるのは当然の事で、全く制御が効かなかった自分を思い出す。癇癪を起こす子供のように蓮を縛って、無理矢理押さえ付けて、得られたものは蓮からの失望と怒りだけだった。目の前のことに動揺して自分の中の自制の区域が丸々陥落していた。冷静になればなるほど、今まで想ってきた仮定上の蓮とは違う、ホンモノを目の前にして巧く動けない自分が居ることに気付かされる。
「逢えば手に入れられると思ったんだけどな。……なかなかうまくいかねーな」
 手に入れたいと願う飢餓欲とは正反対な「嫌われたくない」という生温い感情、自分の欲に任せて一人の人生を踏み外させる覚悟、自分に足りないものが次々に溢れてきて、本当に蓮の隣に居て良いのかと、揺らがない筈だった問いに自問することも増えてきた。
「馬鹿じゃないの。人生楽に生きてる奴なんか居ないっつーの。居たとしたら、そんな奴たいして楽しい経験してないのよ、きっと」
 目を合わせて言い切る利佳に、たしかに、と頷く。
 今これだけ考えることがあるというのは、今まで蓮に甘えてきた代償なのかもしれない。利佳の言うところの楽しい経験をしてきた今までの分が押し寄せているのか、ここを乗り越えればその先にそれがあるのか、勿論判断はつかないけれど。
「……はぁーあ」
 健悟は考えても仕方の無い問題に溜息を吐いて、テーブルの上で額を覆った。
「でもさ。こーんな分かりやすいのに、なんで分かんないかなぁ……なんかもう疲れちゃったよーさすがに」
「肝心なトコ言って無いからに決まってんでしょ。言えよ」
「………………やだ」
 健悟が小さく短く発した言葉。聞こえない程度に呟かれたそれに舌打ちしたのは勿論利佳で、健悟がこっそりと覗き込んだ表情は憤りを隠しきれてはいなかった。
「あんたまさか、蓮の幸せだのなんだの綺麗事言って、結局恐くなったとか無いわよね。蓮に告って振られて仲違いするのが怖いとか言わないよね? 最初に覚悟決めてきたって言ったのどこの誰よ、一気に保守的になって、本当に格好悪いんだけど」
「…………」
 デリケートな領地にずけずけと泥だらけの靴で侵入しては、持ち込んだ泥で攻撃を仕掛けてくる利佳に、健悟は当たらずとも遠からずといった表情で、顔を背けるようにして小さく呟く。
「……ウワヤダー。おまえのそういう所嫌いだよ、おれ」
「あたしなんかあんたの全てがダイッキライよ」
 きっと眼光鋭く睨まれて、冗談だって、と言ったところで利佳の機嫌は戻らない。
 今にも立ち上がりそうな利佳を宥めるように煙草を取り出し、仕方なくライターもポケットから出してやる。
「落ちつけよ。おまえ声デカイって……あいつに聞こえたら――……って、利佳?」
 しかしその二セットを渡すことは叶わず、それを握っていた健悟の右手は空中でぴたりと静止してしまった。
 それもそのはず、憤りを通り越したらしい利佳は下唇を噛みながら何かを堪えているようで、此処まで悔しさを露にした利佳の姿を見た事が無かったからだ。
「……それでもあたしはっ、あんたがあれだけ言うから、あんただから、渡しても良いって、……そう思ってたのに」
 気丈な彼女が今にも泣きだしそうにしている。そんな珍しい姿に罪悪感は募るものの、軽はずみな撤回は出来そうにない。
 それでも、優しくない言動が多々ある中で最後には姉の立場として応援してくれていたことを思い出して、不謹慎にも温かい気持ちになってしまった。
「うん。ごめん」
「謝んな、馬鹿」
 少しだけ微笑んだ健悟の表情を叱り付けたのは、自分に対する罪悪感からの八つ当たりなのかもしれないと、利佳は思う。
「…………」
「すげ、ものすごく貴重なモン見てる」
「最悪。見んなっ」
 ごし、と手の甲で目元を拭えば、濡れた感触が伝わった途端にもれなく液体が付着していた。
 二人の事情を一番知っているのはきっと自分のはずなのに、二人を引き合わせて互いの気持ちを吐き出させれば終わることかもしれないのに、安易に誤解を解くことが正しいとは思えない。その気持ちがもどかしくもあり、本当に正しい選択なのかという罪悪感も募る。
 けれども、二人が抱える擦れ違いを否定したいという気持ちはあっても、頭ごなしに違うと否定することは出来なかった。

 最初の一歩が踏み出せないのに、この先が続くはずが無いと、そう分かっているからだ。

 今利佳が口を挟み現状打破できたとしても、これから先同じことが起きて、何度も助けられるとは限らない。
 所詮自分は他人の位置にいるのだから、本人達の問題は本人でなければ解決してはいけないのだ。

 できないのではなく、してはいけない。
 そうと分かっているはずなのに、靄々とした感情が渦を巻いて心の中で暴れ出し、今にも二人を呼び出して言ってやりたいと、そう思うことしか出来なかった。




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