45

 五十嵐家の廊下とキッチンでは床の種類が異なり、一歩キッチンに脚を踏み入れればフローリングが防水性のタイルへと転換する。しかしここ数日に至ってはその違いはタイルのみだけではなく、境目からは空気そのものが別の箇所と化しているようだった。
「うーわ、此処にも居たわ、辛気臭いの。甲斐性無しが。」
 利佳がキッチンへと足を踏み入れれば、この家では見慣れない紫煙が線になり漂っていた。不規則的なそれらは流れに逆らうことなく換気孔から逃げていく。
 ここ数日ですっかり所定の位置と化し、様になってしまった煙草を加えながら、健悟は気怠げに振り返った。
「……甲斐性あったらとっくの昔に蓮攫って東京に居るって」
「あはっ、あんたが意気地なしで良かったわー」
 溜息混じりに聞こえた言葉は自らを貶む意味合いを持っており、目の下の隈と少しこけた頬を見ながら、利佳は微笑を従えて足を進める。
「で、どーすんのー?」
 健悟が飲んでいたビールを奪うように呷ってから、利佳は問うた。煙草とアルコールという宜しくない組み合わせは職業上止めた方が賢明じゃないの、という投げ掛けは数日前から繰り返し使われたものだったが、健悟の反応といえば現状を見れば問わずとも分かりきっていた。
「……、どーすんのっつーか……最初っから避けられっぱなしだっつーの、俺」
 項を拭いながら再び紫煙を漂わせる様子は、肺に煙を入れたいというよりはただ単に溜息を吐きたがっているように見えた。悶々としている様は目の前に居る男の纏う雰囲気だけではなく、灰皿に眠る煙草の本数の方が如実に物語っている。
 行き詰まっているらしい両者の様子を見ればお互いに仲直りをしたいと言っているようなものなのに、本人達からすればその観察眼さえ忘れて別物に見えるらしい。最早煙の線ではなく渦が換気孔から逃げていく様子に利佳は呆れたが、後ろから聞こえてくる足音に釣られ、口を開くことは阻まれた。
「あれ。どした?」
 利佳が声を掛けると同時に、ジュッと赤を消した音がする。
 けれども彷徨する煙は未だ部屋から逃げきっておらず、蓮は眉を顰めながらスンと鼻を鳴らしているようだった。
「……メシ取りに来ただけ」
「うわー穀潰しぃ」
「うるせえよ」
 健悟に逢いにきたのではないか、という選択肢が一瞬だけ利佳の頭に浮かんだが、当の本人を見て見ぬ振りをした弟は本当に自分のご飯をよそいに来ただけらしい。
 煙草の煙と灰皿の中に沈んでいる本数を一瞥した後、何か言いたげな表情を浮かべながら蓮はキッチンの奥へと進んで行った。
「……あ、よそう?」
 真後ろに炊飯器が置いてある健悟は気を遣って立ち上がったが、蓮が手にした食器を彼に渡す事は無かった。
「……いい。」
 尖らせた唇をそのままに、眼も合わさずに拒否される。健悟の伸ばした手は先に進むことは無く、行き場を無くしたそれで気まずそうに煙草の灰皿を隠してから、一言だけ「そう」と返事した。
「……うっわー、空気おもっ」
 そんな分厚い壁に阻まれているかのような二人の現状を冷やかしながら利佳が言えば、蓮は量を確認することなくさっさとご飯を盛り付けてぱたぱたと逃げてしまった。
「絶対あんなに食べないしあいつ」
 気まずさに負けたのか健悟から逃げたい一心だったのか狭いタイルを走り去った弟の様子に利佳は眉を顰めて、健悟の前の椅子へと座りなおす。
「ちょっと。あんたさぁ、本格的になにしてくれたわけ? うちの弟に」
 健悟の煙草を奪って高価そうなライターにカチカチと火を灯す様子は健悟よりも幾分か様になっており、悪役に紛うことなく一口目の煙は健悟の顔一面にかかるよう吹いてやる。
 蓮華が彫られているライターを嘲笑いながら利佳が投げ返せば、健悟はその柄を隠すかの如く次の一本に手をつけた。
「、……別に、」
「その間がなんだっつってんの」
 人の煙を浴びて不快そうな顔をした健悟だったが、利佳の言葉と共に机下から脚を蹴られて、余計にチッと舌打ちが出てしまった。
 利佳にはもう渡さないと言わんばかりに蓮華の描かれたライターをポケットに仕舞えば、その所作は利佳にとっては大事にされているものと映ったらしい、今度は健悟から逸らすようにして空気中に白を描いていた。
「ばっかだねぇ、あんたら」
「…………」
 健悟から灰皿を奪って、トン、と灰を落とす。
「最初の意気込みどうしたのよ」
「……蓮の前立ったら、飛んでった」
「ぷっ、ダッサ」
 利佳が珍しくも柔らかく笑ったのは、本心からの表情だった。所詮は拗れている現状も話し合えば何も変わらずに解決すると信じていて、それを疑っていないからだ。本人達の不安もよそに、意地の張った蓮さえ戻ってくれば明日にはまた煩くなるだろう隣の部屋を想像して微笑んでいた。
 しかし健悟にとってはその表情すら胸を抉られるもので、確信も無く弟を信じている利佳が羨ましくなってしまった。彼と利佳には血の繋がりがあるけれど、自分には何もないと、離れればそれで終わりだと実感するようで、勢い良く肺まで吸い込んだ煙を吐き出すことすら忘れてしまう。
「なーに泣きそうな顔してんのよ?」
 少しの無言の後、机の下で健悟の脛を軽く蹴れば、予想以上に傷付いた灰色の瞳と目が合った。
「……りかー」
「なによ。あんたが甘えるとかキモイんだけど」
 ふう、と健悟の目の前に紫煙を吐き出すけれど今度は眉を顰められることもなく、寧ろ表情を一層落としてぼそぼそとした声が返ってきた。珍しい、そうは思うだけに留めて話を促す。
「おれさー……、ずっと諦めらんなかったじゃん」
「そうだねえ」
「十年だよ、十年。じゅーねんって、短くねぇよ」
「そりゃね。小学生が社会人になっててもおかしくないからね」
「……んだそれ、真面目に聞けっつの」
 本当ならば誰よりも迫力のある筈の表情だというのに、今は生気さえ乏しい。利佳は、肺に煙を送りすぎてすっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けてから、健悟に二本目を要求する形を右手で作った。
 煙草はともかく執着の深いライターを使うのは気が引けて、棚の中にある百円ライターをわざわざ取りに行く。
「……ばかみてーに欲しくて、ばかみてーに悩んでさ、それでも、ばかみてーに頑張れば手に入るって、なんか漠然と信じてたんだよな」
 背中から聞こえる声は今にも消え入りそうなものだったが、十年間変わらぬ想いを打ち明けられているのかと思うと、その言葉の重みに少しだけ生唾を飲んでしまった。火を点けた煙草で一息吐いてから、ライターをテーブルの上に放り投げて、「で?」と続きを促す。
 いつもと変わらぬ態度を装う利佳を見た健悟は、脚を組み直し、酷く真面目な表情を見せて口を開いた。
「蓮だけと一緒に居て、ずっと一緒に暮らして、それこそずっと、死ぬまで笑顔で居させる自信だってあって、俺はそれで良いと思ってたのね」
 そこに先程までの消えそうな声は無く、一転して自信に満ち溢れた光がある。
「蓮の隣にいれるのは俺だけだって、何の確信も無く信じてたわけ」
「…………」
 強い眼で見据えられた利佳が、口を挟むことすら出来ない気がしたのは、その眼光の鋭さに負けたからなのかもしれない。
「前に、蓮がさ、俺の隣が自分の居場所だって言ってくれたことあって」
「……へぇ、良かったじゃない」
 やっと返事ができたのは、健悟が嬉しそうに力を抜いたからで、もしかしたら利佳が想像していた以上に弟を想い、言葉では括れないほどに依存しているのかもしれないと気付かされた。
「すげぇ嬉しくて、マジ泣きそうになってさ。……もう力づくでもなんでも蓮のこと連れ去りてえって思ったよ、ぶっちゃけ」
「…………」
 知らぬ衝動に、息を飲む。やろうと思えばそれを実行する資産も頭も充分に持っている事を知っているからだ。
 その意図が健悟に届いたのか、健悟は心配そうな利佳を見て自嘲した。現状を見ろと、そう言っているかのように。
「……でもさ、そんな、隣とか言ってくれてた蓮が、今、居ねぇんだよ」
 笑うと同時に白い息が漏れる。
 少しだけ上がった口角は苦笑を意味していて、掌で転がず把握できない現状をぐしゃぐしゃにしてしまいたそうな憂いが見えた。
「俺の隣で笑ってないで、俺が知らねぇ奴んとこ行って毎日過ごしてんの。俺の隣にはあいつが居るのに、蓮の隣に、ぜんっぜん俺が居ない。――……俺の隣で笑わなくなった蓮が、きっとどっかで笑ってんだよ」
 狷介な彼の様子を思い出して健悟が自虐的に言うと、その冷えた目を見てしまった利佳は背骨を震わせながら息を吸い込んだ。
「……あんた、まさか、」
 嫌な予感を抱えながらジュッと灰皿に音をつくったが、両者共に三本目に手を掛ける余裕は見られない。
 焦点が合っていないのか感情を忘れてきたのか一気に読み取れない表情を作って、健悟が続きを話していく。
「ほんとに、漠然と信じてたんだよね。蓮に逢わなかったときも、あいつの隣は俺のもんだって根拠の無い自信があったの。でもさ、やっぱ逢ってみるとちげぇんだ。蓮には蓮の生活があって、あいつだけの友達がいてさ、」
「そんなもん、何当たり前の事言ってんのよ」
「当たり前だよ。すっげぇ当たり前。当たり前だけど……なんでだろ、分かんないけどなんか信じてた。つか、そう思いたかっただけかもしんないけど」
「…………」
「それにさ、べつに忘れてたわけじゃねぇけど、あいつ。普通に女の子が好きで普通の恋愛が出来るんだよね」
「…………、」
 普通って、なに。
 そう問おうとしたけれど、世間的に見れば答えの出ている問いを本人に聞くのはあまりにも酷な気がして口に出すことは阻まれた。慰めるだけならいくらでも出来るけれど、認識は変わらない。健悟の言う普通とは、変えることなど出来ない普遍的なものだったから。



45/50ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!