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 障子一枚に隔てられた場所に、健悟が居る。何も変わらない家に人がひとり増えただけ、たかがそれだけで普段と変わらぬ玄関すら心拍数を上げるには充分な産物となった。
「ただいまぁ〜」
「……ただいま」
 一連の出来事を忘れ去るかの如く音符の付けられた利佳の声と、それに一拍遅れた小さな蓮の声。
「お、やぁっど帰ってきたな不良息子」
「……不良じゃねえし」
 障子に隔たれた室内からは呆れたような笑い声が幾つか響いて来る。蓮が拗ねたように呟きながら脚を踏み入れると、揃って夕飯を食べている変わらぬ食卓があった。
 そこには当然というべきか利佳の言った彼の姿もあり、意図せずとも真っ先に目をやってしまった。一瞬だけ止まる足、周りが全てモノクロに変わってしまったかのように惹き付けられ、眼すら合っていないというのに、ここ数日は静まっていた筈の心臓がまた暴発しそうになる。手の先が痺れて、頭の奥がちかちかする。
 今はもう存在しない鎖骨の噛み痕が、少し痛んだ気さえした。
「タケちゃん家で食べてきたの?」
「、食べてねぇよ」
 だからこそ、睦からの反応に一瞬の遅れが生じた。焦る心を隠すかわりに必要以上にぶっきらぼうな返事になってしまう。
 それを黙認するかのように鋭い目付きで溜息を吐いた睦は、殆ど食事も終えて散らかり放題のテーブルを指差す。利佳の茶碗にご飯が残っていないところを見ると、一番食事が早かった利佳が、半ば無理矢理迎えに来させられたのかもしれない。
「残りで良いんなら食べたら?」
「……扱いひどくね?」
「放浪息子に食を差し出すだけ優しいでしょうよ」
「…………」
 蓮から顔を逸らす睦の所作は冷たく、既に忠敬の食後のお茶を注いでいる。数日ぶりの家だというのに温かい歓迎や心配もない場所に、自業自得と云う四文字をつき付けられている様な気がして蓮は溜息を吐くことしかできなかった。
 いつも自分が座っていた場所、一席分が綺麗に空けられているのは健悟の隣だけれども、喧嘩別れをした相手の隣に行けるほど神経は図太くない。だからこそ健悟からは微妙に離れた位置、丁度利佳が座っていた位置に座ろうと仕方なく脚を進めようとした。
「ほら」
「え、」
 しかし、突然利佳に肩を引かれて進行方向を変更させられてしまい、どこぞの酔っ払いのように、二、三歩足が縺れてしまう。
「ってぇ……、」
 ようやく体勢を持ち直したときには踵に変な感触があって、急いで振り向けばしっかりと健悟の太腿を横から蹴っていたところだった。
「うわっ、わり」
 予想外の行為に脚を退けながら利佳を見れば、おまえの席はそこ、とお節介にも程がある助言が飛んでくる。
 てめぇ、と声も出さずに小さく口を動かすと、横からこれまた小さな声が聞こえてきた。
「いや、大丈夫」
「、?」
 その違和感に健悟を見れば、彼は脚を動かして体勢を整えただけで此方に目すら配っていなかった。
 ――今までだったら、大丈夫だよって、柔らかく笑ってくれたはずなのに。
「…………」
 ……そういえば、さっきから一度も目が合っていない気がする。
 段々と悪い意味で煩くなる心臓を抱えながら、ゆっくりと健悟の隣に腰を下ろす。胡座から正座に切り替えた健悟の背はしゃんと伸びていて、あれこれと考えている自分とは全くもって正反対のように見えた。
 考えてみれば、最後に健悟と交わした言葉、自分は何と言っただろうか。
 勝手に東京に帰れとかふざけんなとか、感情に流されるがままに酷いことばかり言った気がする。加えて、腹やら腰やら、動けるだけ殴ったような記憶もある。
「、」
 さーっと血の気が引くと同時に、今になって、思う。
 ――怒ってるのって、もしかして……俺じゃなくて健悟の方じゃね?
「…………」
 だって、撮影とか大丈夫だったんかな、あのあと。なんか俺のせいでストップかかってたりしねえよな、顔は殴ってねえし、大丈夫、だよ、な? ……でも、痛かっただろうな。痛くねえわけねえよな。だからこんなに怒ってんのかな、んな、眼も合わせてくれねえくらい……。
 ……や、それとも、あれか。健悟の計画が全部俺にバレたって気付いたのかな、そしたら俺なんて用無しだもんな。まあ、……俺が、健悟のことが好きなのさえバレてなきゃ、べつに……、いや! つーかなくすんだろ!
「……はぁ」
 ふいに落ちた溜息は、意識したものではなかった。自分に言い聞かせるように散々言い聞かせてきた言葉を一回、それでも足りずに繰り返し、呪文のように心の中で繰り返す。
 ――好きじゃねぇ。好きじゃねぇ好きじゃねぇ、……好きじゃねぇ。
「…………」
 隣に居る健悟にばれないように、小さく深呼吸をしてから箸を取る。落ち着いて食べて、風呂入って、寝て、起きて、また羽生家にでも行けば良いんだろ。簡単じゃん。冷静を装って、って考えてる時点で冷静なんかじゃないわけだけど。
 どんなに自分に怒ってても、とにかく健悟が元気なら、それはそれで良いに決まってる。
「ゴチソーサマ」
「、!」
 突然隣から声が聞こえて、思わず肩が揺れてしまった。
 びっくりした、と言ってしまいそうになる言葉を呑み込んで、去り行く背中をちらりと一瞥すれば今までとは変わりない健悟の姿がある。同時に、あっさりと離れていくそれに、こんなにも意識しているのは自分だけだと思い知って頭を垂れてしまう。
 キッチンに消えていって冷蔵庫を開ける音がしてやっと、何かの呪縛から解けたかのように肩も指も動かすことが出来た。少しだけ落ち着いて食卓を見れば焼き鯖が丸々二切れ残っていて、残り物と言いつつも、もしかしなくとも自分のために残してくれたんじゃないかと少しだけ罪悪感が募った。
 もぐもぐと大人しく咀嚼していると、相も変わらずしつこいほどの視線が届く。
「……んだよ、見てんじゃねえよ」
「健悟が出てった途端いきなり食べ出してさー、元気ですこと」
「…………」
 当然厭味たらしく話しかけてきた相手は利佳で、それ以外の皆は時代劇を見たり新聞を見たりと各々好きな事をやっているようだった。
「やっだー。男だったらさっさと仲直りしろっつーの」
「だからんな簡単な問題じゃねぇんだって」
「簡単じゃん。『ごめん』って言えば良いだけのに」
「言えれば苦労してねーよ」
 喧嘩した、というそれだけは知っているけれど、なぜ喧嘩したのか、しかもそれが殴ってたりなんだりしてるとかそこまでは聞いていないんだろう。
 キスをされたり鎖骨を噛まれたり、今考えてみれば、手を出したら確実に勝ってしまうだろう健悟からの最低限の牽制にすら思えてきた。確かにあの腕で殴られたら、きっと軽い脳震盪くらいは起こしていただろうから。
 なんかもういやだな、胸らへんがむずむずする。仲直りってどうやってするんだっけ。利佳は謝れば良いって言うけど、何を謝れば良いんだよ。何のごめんだって問われれば、無数に存在する事項にいくら謝っても謝りきれない。
「…………」
 無視してごめんって謝れば良いのか、だからってなんで無視したのって言われればなんて答えりゃ良いんだよ。好きになったからなんて言えっかよ。ごめんなんか、そんな三文字くらいで解決する話でもなんでもないじゃん。
 ごめんって言って取り繕って、それでこの気持ち悪い感情を覗かれれば冗談じゃなく死にてえわ。

 ――好きになってごめんとか、言えるかっつの。

「、」
 自分が思った言葉の女々しさに余計に嫌気が差して、伸ばしていた箸を下ろした。
 その姿を見た利佳は当然のように呆れて、くだらないとでも言いたげに小さく息を吐いている。
「だっさ」
「てめぇ……人がこんなに悩んでるっつーのに」
「だからそれが無駄だっつってんの」
「あぁ?」
「まいーや、ごちそーさまぁー」
 蓮の言葉を無視するように、利佳は自分の茶碗だけでなく空いたお皿を片付ける。
「ばーか、せいぜい悩めガキー」
 そして、最後に捨て台詞を吐きながら消えて行った先は健悟と同じく台所で、これから二人が何を話すのだろうと考えただけで食欲が奪われる思いだった。
「……おまえのせいだっつーの……」
 ぼそりと呟いた言葉は蓮の咥内にのみ存在し、その言葉に反応を見せる人物は誰一人として居なかった。



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