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「……―――…ん……、」
 ごろん、怠そうな呻き声をあげた蓮に反応を示したのは四人、車のエンジン音に掻き消されそうなほどの小さな声だったというのに、そんなことは関係ないとでも言うように耳を傾けては、全員がその方向を注視した。
「、―――蓮!」
「え、起きたか?」
 キキーっというブレーキ音を響かせながら忠孝は車を止める。
 現在走っているのは一般道、病院からの精密検査の結果も外見上は問題ないと、詳細は後日郵送すると言われながらも渋々東京を後にしているところだった。
「蓮、蓮、……聞こえる?」
 助手席にいた睦が後ろを振り返ると、蓮を抱っこしていた利佳がその閉じた瞳を覗き込み、心配そうに語りかけている。
「……えー……、……なに、って……」
「? 頭痛い? 大丈夫?」
「……ふぁーあ……んー……」
 たどたどしい言葉遣いに利佳が眉をしかめて話し掛けるも、当の本人は開けかけの双眸も隠すことなく、両手で目を擦りながらぼんやりとしている様子だった。
「……おい、まさか寝過ぎて頭痛いんじゃねぇの、この馬鹿」
「…………はぁ、」
 次に聞こえたのは利佳の横に座る龍二からの呆れたような舌打ちと、運転席に居る忠孝からの安堵を含む溜息だった。
「、どこー?」
 小さく開いた蓮の口から声が漏れる、何故車に乗っているのかもわからないらしい蓮はきょろきょろと周りを見渡していたが、……それはそうだ、蓮にとっては健悟と出逢ったあの公園、あそこが最後の記憶だろうから。
「もう家近いよ、ちゃんと起きた? 私のこと分かる?」
「はぁ? 何いってんの……?」
 眠気からか意味が分からないと顔を歪めた蓮が利佳に抱き着きながら、その質問に答える。不機嫌そうに欠伸をした後に、りか、と一言、それだけで車内に安堵の息が充満した事実に、この小さな子供は微塵も気付いていないようだった。
 けれども、次の瞬間―――。
「、なんで移動して……おれ、ずっと寝てた? ―――たけひとは?」
「――――」
「、」
 たけひと、と、今は全く関係ない人物を呼んだ蓮に、全員の表情から安堵の色が一瞬にして消え去った。
「……蓮?」
「んー?」
「……おまえ、武人って……―――なんでここにいるか、覚えてねぇの?」
「??」
 目敏く質問した龍二に全員が息を飲んだけれど、ひしと利佳にしがみついている蓮はそのまま首を傾げていて、質問の意図が分からないと、そう言いたげに目をくりんと丸くしていた。
「―――!!!」
「ちょっ、……蓮、これ、は……?これは誰か分かる?」
 焦った利佳が腕の中に居る蓮の顔を軽く掴んで、隣に居る龍二へとその顔を向けさせた。
「? りゅぅにぃ……?」
 けれども、何事もなかったかのように、普段と何の変わりもなく龍二の名を呼ぶものだから、龍二は小さく安堵の息を吐きだしながら「正解、」と蓮の真っ黒な頭を撫でてあげることしかできなかった。
「……蓮。これ何本?」
「?、に!」
 次に聞こえた声は助手席から、右手の人差し指と中指をピースサインのように立てながら蓮に問い掛けるけれども、蓮は何を聞いているのかとでもいうような表情で正解を放った。
「おい蓮、じゃあ、コレ足すコレは?」
 そして今度は龍二が指を立てる番、右手に三本、左手に二本の指を立てながら蓮に向けると、蓮は一瞬だけきょとんと目を丸めながらも目の前に迫る指をいっぽんいっぽん数えはじめた。
「いち、に、さん、たす、……いち、に……ごっ!」
 そして正解を放てば嬉しそうに表情を綻ばせては、物当てゲームをしている感覚なのだろうか、楽しそうにきゃっきゃと笑っているのみだった。
 龍二の存在だけではなく算数の足し算までも覚えているということは、少なくとも蓄積できている記憶に支障はないらしい。
 そう悟った利佳はきょろきょろと周りを見渡してから、龍二がすっかり肘置きのように扱っていたウサギのクッションを蓮のもとへと引っ張っていく。
「……え、あー、えっと……これは?」
「―――うさぎ!」
 探るように差し出した利佳の所作とは一転、蓮からの反応は大きなもので、決して可愛いとは言えないウサギのクッションを大きな声で呼んでは己の元へと引き寄せていた。蓮の身体ほどもありそうクッションを抱きしめれば、蓮の自分の間に隔たる壁に利佳はひどく邪魔そうな顔をしたけれど、そのウサギのクッションは先々週買ったばかりだ。ブサカワイイと話題になっているそれのなにが気に入ったのかは分からないが東京までもってきたということは、相当気に入っていたのだろう。
 その記憶があるならばただ寝ぼけているだけなのだろうか、そう一同がホッとしている、と―――。
「、あー!!!……りかよごしたぁっ!!!」
「――――」
 次の瞬間、蓮から発された言葉に全員の動きが止まった。
「りかがよごした〜〜〜!」
 シンとする車内で唯一動いてるのはウサギの肩に染みを発見した蓮のみ、泣きそうなほどに大きな声で騒ぐけれども、それに対しては誰一人として反応することはできなかった。
 だってそれは、うさぎの汚れは、―――蓮がこの東京で、汚したものだったからだ。
「、…………おいおいまさか……」
 ひく、と口元を引き攣らせた龍二が想定したのは宜しくない事態であり、龍二は急いで携帯電話を取り出した。
 家族の記憶、足し算の後の記憶、ウサギのクッションを手にした後の記憶、残るは―――……。
「……蓮、これ、誰だか分かるか?」
「…………」
 龍二は不機嫌そうにウサギを握り締める蓮に向けて、画像フォルダにある一枚の写真を見せつける。
 ディスプレイに映るのは、病院内でその姿を捕らえようと連写していた中において、最も映りが良く銀色の髪までしっかりと捉えている貴重な一枚だ。
 焦りからか心配からかドキドキと煩い心臓は龍二だけのものではない、四人全員が蓮の動向を見守っている中、蓮はじっと写真を見て、そして―――。


「? しらなぁい。」


 ―――やけにあっさりと、まるで興味すらもないように。

 そんな雰囲気が伝わってくるには十分すぎるほどに唇を尖らせながら発された言葉だった。東京在住中には一時とも治まらずけんごけんごと、その名を口にしていた明るい瞳も深い好奇心も見つからないことに、全員が言葉も発せず、息を飲むことしかできなかった。
「うさぎー! おれの、りかよごしたー!」
 知らぬ写真などはどうでもいいというように龍二の携帯電話からもあっさりと視線を外して利佳に詰め寄る蓮、それを見る利佳は言葉も発することができずに、ただぽかんと蓮を見つめているようだった。
「……マジかよ……」
 ぽつりと呟いた龍二は更に画像を進めては、より克明に映っている写真を探していく。
「蓮、ほんっとにか、ほんっとにわかんないか、こいつのこと」
「―――……んー……?」
 けれども、いくら蓮に写真を見せたところで、首をこてんと、わかんないと軽く言われてしまえば、蓮にとってのこの話は終了してしまったようだった。あんなにも長かった数日間が、あんなにも煩かった蓮が、映画を見てはきゃあきゃあと興奮していた蓮が、―――全部、消えてしまっている。
「…………と、……とりあえず、戻ったら病院連れてくか……」
 珍しくも口ごもった龍二が驚きを隠せないとばかりに言うと、それにだけはピンと耳を張って反応したらしい蓮が、ウサギのクッションを抱き締めるようにして首を振り出した。
「、びょーい……おれ?なんで?やだ、やだっ、やだやだやだぁっ!」
 病院といえば注射を受けるところ、嘘を吐いて何度も連れていっているだけにその固定概念がどうしても崩れないらしい、蓮はいやだと何度も首を振ってはウサギを超えて利佳へと抱き着いた。
「、」
 蓮によりぎゅっと抱き着かれたせいで、戸惑いに満ちていたはずの利佳の双眸が段々と生気を帯びてくる。
 目の前でイヤだと連発しながら困ったように抱き着いてくる塊は今までの蓮となんら変わりはない、言っていることも、やっていることも、何一つとして、変わらない。
 ―――だからこそ。
「……良いじゃないべつに、病院なんて行かなくても」
 そう思った利佳は、ぽつり蓮の上に本音を吐露しながら、今にも泣きだしそうなそれを抱き締める。
 利佳以外の三人が一様に驚いた表情をしては、何を言っているのかと目を疑っていたけれど、利佳はひとり、蓮の両頬をもって、しっかりと蓮に瞳を合わせながら質問を続けていく。
「必要ないわよ。蓮、あんたが最後に武人に会ったのいつだっけ?」
「たけひと……?きのう、たけひとんち、泊まった……」
 病院が恐いのか言葉を選んでいるらしい蓮の肩はびくびくと揺れていて、蓮にとってはつい昨日の出来事らしいそれを思い出すように小さく口ごもった。
 武人の家に泊まったのはつい最近、前後の話から推測しても、きっと、東京に行く前日止まっていたあの日、あの夜のことを言っているのだろう。
「そっか、……ありがとう、私が忘れてたよ」
「、」
 けれども利佳が恰も自分が悪かったとでも言うように謝り、蓮の頭を撫でると、途端に蓮はホッとした表情をつくっては、利佳にぎゅっと抱きついた。
「大丈夫だって、あんたのこと黙って病院に連れてったりしないから。眠いんでしょ? ……寝なよ」
「…………」
 ゆっくりと蓮の頭を撫でると、蓮は戸惑うように利佳を見上げては、疑いにも困惑に満ちた表情を送って来たけれど、利佳はそれを誤魔化すように流しては、ぽんぽんと蓮の背中を優しく叩きはじめる。
「、……りか、うさぎ……」
「わーかったわよ、ごめんってば。あとで私がもう一回買うから」
 はいはい、とでも言うように利佳は手中に居る塊を宥めて、ぎゅっと抱きしめながら背中をゆっくりと叩いていく。
「……ん、りか、ありがと……」
 そして小さなころから利佳に寝かしつけられていたせいなのだろう、背中の一定のリズムに引かれるように、ふにゃ、と笑顔を崩したが最後、ずっと眠かったせいか蓮はゆっくりと目を閉じていつの間にかすうすうと寝息を立てているようだった。




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