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 蓮が小さな口を開いてすかーっと目を閉じていることを確認してから、それを起こさないようにと龍二が小さな声で利佳を呼ぶ。
「おっまえ……どうする気だよ、」
「どうもしないよ。別に……このちょっとの間を、なかったことにすればいいだけじゃない」
「あのなぁ、バレんに決まってんだろ……蓮の中では一昨日だか昨日だかが終業式なんだぞ、来週からいきなり学校だっつわれてンなホイホイ従うはずねぇだろ」
「……日付なんて覚えてやしないわよこのバカは」
 ぐ、と唇を噛み締めながら言った利佳は自分でも無理があるとは分かっていたけれど、それでもどうしても嫌だった。理屈なんかでは言い表せられない、いやだという、ただその一点のみ、だ。
「―――……はぁ」
「……っ、良いの、居なかったの!蓮は誰にも会ってないのっ!」
 頑なに言い張る利佳に呆れたように龍二が溜息を吐くものだから、それを見た利佳はかっと目の前を赤くしかけては、手中にある蓮の背中をぐっと抱き寄せた。
「あーもう、落ち着けよ、蓮起きんだろ……」
 だからこそ龍二が軽く咎めると、まるで龍二のせいだと云わんばかりに泣きそうな顔をするものだから、龍二は蓮を抱き締める利佳のその頭を、まるで小さい子を手懐けるように軽く笑みを宿しそうになりながら撫でていく。
「なに焦ってんだよ、ばか……」
「っ、」
「……べつにおまえが忘れられたわけでもねぇのに、なんだよその顔は」
 そんなにいやだったのか、と問えば思い出したくないとでも言うように利佳の顔がふるふると震えそうになるものだから、わーったよ、と呆れながらその頬をぶにっと抓ってやった。
「……―――まぁとりあえずは、東京のお医者さんに電話してみるわ……話はそれからでしょう。健悟君にも知らせた方が良いかしら……」
 事態の把握が追いつかないとばかりに睦が溜息を吐く。
 一通りの精密検査を受けた後、問題ないと診断されていたはずだった、結果に異常があるとするならば詳細を聞き指示を仰がねばと睦が携帯電話を取りだすと、健悟、という言葉に反応した利佳が口を尖らせながら反応を見せた。
「―――あたしが言う!」
「、」
 強い口調で若干の怒りを伴いながら言えば、利佳は何かを堪えるように眉を顰めながら、着実に続きを紡いでいく。
「……あたしが、あいつと連絡取るから。……今だけじゃないよ、これから先、もしあいつから連絡あったらあたしが言う。……あたしからは、絶対しないけど」
 チッと悔しそうに舌打ちをした利佳に、龍二が「マジで言ってんの」と問い直せば、利佳は大きく頷いてから周囲を見渡す。
「あいつから連絡来たらまずあたしに通してね、絶対。あんだけ言ってたんだもん、別にあたしがどれだけ言ったところで変わんないんでしょ? ……絶対やだから、ぜったい、返して貰うから」
 ぎゅ、と蓮を抱き締める力を強めたのは、目の前にいるこの子供をあんな男には渡さないため、ぜったいに指輪を返してもらうと、そう決意したからに他ならない。
「……蓮にも、どうしても言わなきゃダメっていうならあたしが蓮に言う。東京行ったこととかも全部言う。ぜんぶ……あいつのこと以外は、言う」
 シン、と静まった車内で睦と忠孝は難しい顔をしていたけれど、龍二だけは気怠げに手をあげて、利佳を援護するように話していく。
「―――俺は賛成。今回の件で一番見てきてんのもこいつだし、たぶん、一番納得いってないのもこいつだし。あんなガキから連絡あるとも思えねぇけど……まぁ、良いんじゃねえの、好きにすれば」
「龍にぃ……」
 がんばって、と他人事のように云うのは龍二が未だそこまで健悟に興味を見出せていないから、これから先の言動によって利佳の味方にも健悟の味方にもどちらにもなりうると、龍二は言葉にせず飲みこんだ。




 その後は、勘の良い娘に手紙を取られた睦が焦ったように健悟を心配していたけれど、利佳にしてみれば至極どうでもいいことでしかないと、家に帰って捨ててやりたいとすら思っていた。皺の酔った手紙を蓮には渡さずとも利佳が保管し続けていたのは、所詮、蓮が事故に合ったのは自分のせいだと、それを守ったのは健悟だという負い目がただ一つ存在していたからだ。
「――――……」
 いつから始まるのかも分からない遠い場所に居る人物との攻防戦、いつまで続くかも分からないそれだけれど、勝負のその日が来るまでは、絶対に蓮には伝えないと誓った。
 それが今の自分にできる最大限の復讐であり、―――もし数年後、現れるかもしれないその人物にとって、自分への罪滅ぼしになるだろうと思ったからだ。
 そんなこと、すやすやと無邪気に眠り続ける本人は知る由もないのだろう、涎を垂らしている蓮は夢の中で、物凄く恰好が良い映画を見た気がしたけれど、所詮は夢の中の話、それから現実へと反映されるまでには至らなかった。








―――同日、午後六時。



 田舎に着いてからすぐに連れられた病院では当初泣きわめいていた蓮だったけれど、利佳の腕の中、注射もしない、苦い薬も飲まない、そう散々言い聞かせてからの診療は幾分か落ち着いたものだった。本当に問診のみが行われたせいか、蓮にとってはなぜこの場に自分がいるのかもわかっていなかったに違いない。それでも耐えたのは、蓮が我慢したら晩御飯はハンバーグな、という龍二からの優しい一言に踊らされ、手懐けられたからなのかもしれない。

―――いちじてきな、きおくそうしつ。

 そんなキーワードは蓮の頭にも入って来たけれど、漢字変換もされないそれが蓮の頭に残るはずもなかった。
 本当にただの数日間、大きな出来事に事実を処理しきれなくなった脳が否定した出来事はいつ戻ってくるかもわからないとのことだった。ある日ある時唐突に戻ってくるケースもあれば、一生戻って来ない場合もある。
 ドラマの中でしか聞かないようなそれらをかみ砕いて蓮に都合よく利佳は言い聞かせたけれど、蓮は実感がないのか納得がいかないのか、ううんと唸りながら首を傾げているだけだった。
 ただ、思い出せないけれど、何かはあった気はすると、そう拙い言葉で蓮が伝えた瞬間に五十嵐家の空気は一瞬にして凍りついたけれども、誰かが口をはさむより前にと利佳が率先して捲し立てるように説得を続けていた。
 いくら利佳に教えられても何かが違う気がすると、ピースがまったく当てはまらないばかりの出来事に蓮はもんもんと不機嫌そうな顔をしていたけれど、誰も教えてくれないという事実は蓮の不安を呷るものでしかなく、それ以上前に進むのを止めろと、踏み込むなと言われているようでもあった。

 不安に駆られた蓮が、その日の夜、大好きなハンバーグの味も覚えていないのは、きっとそのせいだ。
 利佳が嘘を吐いて、睦が何かを隠すような笑顔で笑って、それを敏感に感じ取った蓮はそうして、少しずつ、少しずつ……利佳に対しての不満と、「ウソツキ」という感情だけが募らせて行ったのだった。







 ―――事態が急変したのは、それから、暫くしてからの出来事だった。

 真っ白な便箋が一通、五十嵐家の郵便受けの中に届いたことが切っ掛けだった。

 封筒を見ただけでは差出人も分からない簡素なものだったけれども、中を開いてから刹那、おひさしぶりです、と始まる手紙を利佳はひとりで部屋へと持ち帰った。




 真嶋健悟がテレビに出た瞬間に番組は変えられる、表紙になっていた本は捨てられる、たとえ脇役ですら出ている番組は以ての外―――それは、利佳が嫌いだからという理由だけではない、蓮に見せないためだと、五十嵐家の人間が気付くまでに時間はかからなかった。
 健悟から届く手紙も、利佳の行き過ぎた攻防も、どうせ今だけなんだから、と誰もが思っていたはずだった。
 持って三か月、龍二はそう呆れては相手にせず笑っているだけだった。
 当の本人を除く水面下、蓮には決して知られない場所にて行われる攻防戦、どうせ今だけなんだから、と誰もが思っていた手紙がそこから十年間も続くことも、そしてその相手が日本を代表するような俳優になることもまた―――想定外の出来事だった。



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