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 目ん玉落ちそう、と思った表現は強ち間違ってはいないのだろう、細められた瞼の下、黒目がゆらゆらと涙の水面で揺れては、太股あたりにぎゅうっとしがみついている塊があった。
 あまりの突然な出来事に事態の把握が追いつかない、声もなく真っ直ぐに見上げてくる瞳を呆然と見つめることしかできなかったけれど、頬を膨らませながら俯いた黒髪から視線が外れた瞬間、へたり、情けないと思いながらも膝の力が抜けては、目の前の小さな子供と同じ目線にまで下がってしまった。
「、っくり、したー……」
 うっわ、とつい口走りながら目の前の顔に触れると、ぷにぷにとした頬っぺたは未だ健在で、初めてここで会った時のように、今にも泣いてしまいそうに噛み締められた下唇が見える。
 真っ赤に染まっている頬と耳が寒いと遠回しに言っては、強く掴んで離さない指に何かを訴えられているようだった。なんで、と声を掛ける寸前に、転びそうだった足音を思い出して、本当に躓いて転んでしまったのだろうかと危惧する。外傷もない膝を覗き込んで、痛い? と尋ねたけれど、帰って来た答えは首を横に振るというそれだけのもの、ずずっと鼻水を啜ったような音が耳元で聞こえては、不満そうな顔でぎゅうっと首に抱き着かれてしまった。
「え、……なに、どうした?」
 問えども返ってくる言葉はなく、じっと佇む子供がひとり。
「一人で来たの? ……危ないでしょうが」
「……ちがう、利佳と来たっ」
 少しだけ声を低くして咎めれば、漸くとでも言うように首を上げた蓮が睨んできた。過去二回迷子になっていただけに、子供なりに少しは学習しているのかもしれない。
「利佳? ああ、姉ちゃんね……、姉ちゃんは?」
「あったかいここあ買いに行った、おれ、ここで待つって……っくしゅん!」
 典型的なくしゃみをしては、うー、と不機嫌そうに眉を顰める子供、仕方ねぇなぁと、普段の自分ならば絶対に見せない情けを見せてから自分の首からマフラーを外した。
 一気に寒さを感じた項に背筋がぶるりと震えたけれど、目の前の子どもの方が余程寒そうにしているのだから、仕方がない。
「あーあーあー、こーんな冷えて……ほら」
「……ずびっ」
 ありがとう、とぼそぼそという声がひとつと、ずび、と鼻を啜る音。風邪引くなよ、という意味を込めて頭を撫でながら、できるだけ優しい声で語りかける。
「……なに、どこか行ってたの? ここら辺って何かあったっけ?」
 栄えている都市部ならまだしも住宅街の方面に位置しているここでは何の面白みがあるのかも分からない、小学生程度の二人が楽しめそうな場所は脳内を検索しても見つからず、健悟は眉を顰めながら尋ねた。
「…………」
 俯きがちでどこかおどおどしている蓮の様子、明るく喋りかけてくることもないそれに違和感を覚え再度様子を尋ねると、細い腕が自分に向かって伸びてきた。
「、」
 え、と声も出せぬままに目を閉じた瞬間、力任せに頭を弄られて喉奥から奇声を発してしまった。
 それもそのはず、目の前にいる子供は下唇を噛み締めながら不安そうに鬘を弄っていて、どうにかして取ろうと必死に手を伸ばしているようだった。どういうことだ、と思うと同時に周囲に誰も居ないことを確認して、少しだけだよ、と溜息混じりに鬘のピンを外した。我武者羅な子供に手を出されて無暗に痛い思いをするのなら、観念してさっさと取ってしまった方が得策だからだ。だって、どうせもうこの子供は、知っているのだから。
「……なぁに、これで良いの?」
 ぱちん、ぱちん、ぱちん。ズレないように固定されていたピンを解いて、銀色の髪の毛を夜の闇の下に晒した。一段と寒くなったそこを掌で掻き混ぜて、しゃがみ込みながら蓮の顔を覗き込むと、先程よりも断然ホッとしたような顔で目を合わせてくれた。
 俗に言うヤンキー座りになってしまっている事実は致し方ない、誰も来るなよ、と願いつつ蓮を見ていると、差し出された手はそのままに髪の毛を目指し、くしゃり、前髪を握り込まれた。
「けん、ご、……だぁ……」
 ふぅ、と少しだけ落ち着いたような蓮の様子に驚いて首を傾げるも、そんな此方の様子も眼に入らないのか、蓮は段々と嬉しそうに銀色の髪の毛で遊び始めた。
 テレビで見てたと言っていたのに、この様子はどういうことなのだろうか。そう思って蓮に尋ねると、ふにゃりと笑んでいた表情は一変、ぷうと唇を尖らせては健悟の手元にある闇色の鬘を眺めていた。
「……だってこれ、ちっげーんだもん、」
「? 違う?」
 鬘を睨む蓮の意図が分からず問い直すと、蓮はぱっと顔を上げながら健悟に訴えるように話し始めた。
「っかんないけど、なんかやだ。いつも怒ってるし、恐いし……けんごはもっと、こうしてたほーがいいっ」
 言うよりも早く、健悟の頬に届いた蓮の両手、際限ない子どもの力でぐいぐいと上に頬を持ち上げられては、痛いという健悟の声も聴かずに蓮は健悟の顔に合わせるような笑顔をつくる。
「にーっ!」
「おっまえ、また……」
 つい先日会った際にも顔で遊ばれて笑顔になれと言われた記憶がある、デジャヴのようなそれに呆れてつい笑ってしまうと、それを求めていたのか蓮は少しだけ満足そうに手の力を緩めていた。
「いひひっ」
 テレビを見て、蓮と話していたトーンとの違いに驚いたのだろう、何度も確かめるようにまじまじと不躾気味とも云える視線を送っては、ホンモノかどうか確認しているようだった。
 確認なんて此方が取りたいくらいだ、あれだけ探していた人物がこんなに簡単に目の前に現れていることが信じられず、蓮が髪の毛を触っている間にも此方も負けじと凝視してしまった。
 聞けば、先日会った様子と違い過ぎる黒髪のそれに、テレビに向かってどうしたのと尋ねても何の反応もなかったらしい、当たり前のことに唇を尖らせながら、けれど今はちゃんと答えてくれると、そうふにゃりとした笑顔で言われれば突っ込むことすら忘れて、何を思ったのか自分でも分からぬままに真っ黒な艶髪を撫でてしまっていた。
 かわいい、と思うのはきっと、こんなに小さな子どもに対しては、普通に湧き出る感情なのだろう。
 共演者である子役にはあざとく可愛気の欠片もない人物が多いからこそ、より一層そう思ってしまうのかもしれない。
 触り心地の良い黒髪をさらさらと撫でれば蓮は気持ちよさそうな顔をするものだから、この子の周りに居る人物は相当、この子を甘やかしたがるのだろうと、甘やかされて育ってきたのだろうと思う。自分だって、人のことは言えないけれど。
「あ、」
「ん?」
 すると、綺麗な天使の輪を持ったそれを堪能していたとき、突然蓮の大きな目がぱっと開かれては思い出したかのように口が開かれた。
 一言で問い直すと、背中に背負っていた黄色のバッグをがさごそと漁っては、どこだっけ、と小さく呟きながらその中を覗き込んでいる。
「んっとね、あと、利佳がね、けんごが今度おうち来るとき、これがなきゃ来れないって言ってたから……」
 えっと、と言いながらも必死に鞄に手を突っ込む姿は可愛らしく、そういえば余計なものばかりが入っていたなぁ、と先日見たバッグの中を思い出した。
 あれ、あれ、と言いながら手を伸ばした蓮が中を覗いていると、数秒後、―――あ、と小さな声がした。
「はい、おれのうちの住所!」
 そして手渡された一枚の紙と、それから上にある満足そうな笑顔が健悟の視界を支配しては、一瞬、その与えられた紙に対して手を伸ばすことすら忘れてしまっていた。



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