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 クリスマスが過ぎて、お正月が過ぎて、三が日。
 溢れる手紙の束をすべて触りきっていないのは当たり前、たかが一週間と少しで読めるだけの量ではないからだ。数年分の想いが詰まったそれに触れる度、慣れることはない、見も知らぬ幻影が文字を通して浮かんでは消えていく。心地の良いメロディーに永遠と包まれているかのような、そんな錯覚にすら陥るほどだ。
 何十通目かも分からないピンク色の手紙を丁寧に便箋へと戻して、頭に残る言葉の数々に身を委ねる。暖色で緩やかな言の葉が空間を支配しては、柔らかい感情に沈んでいた。そして言葉を思い出し、文字を思い出し、手紙の外形を思い出した瞬間―――……また、シンプルな白い封筒が頭に沸いては、ふっと思考が途切れた。
「…………はあ、」
 至福な時を邪魔するような白一色の封筒に汚い文字、精一杯書いたところで自分の限界はここだろうと、妥協ではない、納得せざるを得なかった文字を思い出す。
「……いがらし……れんくんへ、かぁ……」
 小学生かはたまた幼稚園生か、滅多に使わない平仮名ばかりを多用して必死に書いた初めての手紙の宛先なんて、言うまでもない。
 ポケットから取り出せば、くしゃり、片時も離さず持ち歩いているせいで封筒の端が折れている事実は否めない。
「…………逢えるわきゃ、ねえよなぁ……」
 彼に出逢った回数は二回、どちらも偶然の産物で、一週間以上前の出来事だ。田舎から旅行に来ていたのだろう彼はもう東京には居ないのかもしれない。逢わなくても何の問題も生じない、これから先、あの子と逢う機会があるとは思えない。それでも、自分ですら取集のつかないような、なにか言葉にすることのできない感情、よくわからない感情が悶々と沸いては、彼に伝えたい言葉ばかりが一瞬で溢れた。
 定めのない感情が渦巻いてばかりだけれど、ひとつだけ、はっきりしていることがある。
 自分はきっとあの真っ白い笑顔に向けて、ありがとう、と、堂々と言い返したかったんだと、そう思う。どういたしまして、と疑うことなく笑う無邪気な表情をもう一度だけ見たかった。
 あんなにも心を純粋に映す器なんて、見たことがなかったから。
 この仕事をしていると、皮膚の下に込められた感情を見付ける術が身について来る。一瞬の視線、眼の動き、感情を表す呼吸、口調も顔色も、すべて自分で感じてはその相手に合わせた演技をしているからだ。
たくさんの人を見てきたけれど、あんなに無防備な人間は、あんなにも誰にでも優しい人間なんて見たこともなかった。
 ファンレターの返事を書く前に、初めて書いた手紙。いつか渡せないかなと今の気持ちを綴ってみたけれど、きっと渡せる日が来ないだろうことは分かっていた。
 もう一週間以上になる、毎日あの道を通っても小さな黒髪の少年は居なかったし、無邪気に輝く笑顔にも出会えなかった。
 迷子の旅行者に会うのは不可能だと分かりつつも、それでも数十分ほど寒空の下、手紙を片手に蓮を待っている自分が居た事実は否めない。結果としては、いまもなお渡せていない手紙が物語っているのだけれど。
 事務所からしか連絡が入らない携帯電話には不釣り合いな未登録の十一桁、唯一入っているのは彼の母親の電話番号、それだけだ。電話を掛けたところで用があるわけでもない、自分の立場で勝手な連絡をとって、変な噂でも流されたら堪らないと、唇を尖らせた回数は最早数えきれない。……そんなこと、するような人には見えなかったけれど。
「……別に、良いケドネ」
 ふん、と強がりながら手放した白い封筒だったけれど、きっと明日になれば、懲りずに持ち歩いてしまうのだろう。
 世間で言うクリスマスも正月も全く関係なく日々は過ぎていく、稼ぎ時にバラエティー出演もしない自分は相も変わらず撮影の繰り返しで、モノクロ世界に染まる前にあの笑顔がまた見たかったな、と、またひとつ、新しい手紙に手を伸ばした。


***


「、さっむ……」
 改札を出た途端につい落ちてしまった一言、はぁ、と息を吐けば鼻息すらも真っ白に変わりそうで、ぐるぐるに巻いたマフラーに身体を震わせながら潜り込んだ。
 もはや自分の一部だと疑わない黒い髪が熔けるような真っ暗な闇、夕方の五時を廻った程度で随分と暗くなってしまった視界だけれど、このくらい暗くなってくれると助かる。不用意に誰かに気付かれることもない、ただ帽子を深く被る位で自宅までの移動ができるからだ。
 はあ、と再び息を吐き出せば真っ白で、わあきゃあと公園から聞こえて来る学生の声に耳を傾けてはよく騒げるだけの元気があるな、と歳に似合わぬことを思った。
「…………」
 初めて蓮に会った日からは一週間と五日、ちょうどあの子供に逢った場所、逢えた時間帯だと時計を見てから、ついついベンチに腰を下ろしてしまうのは、もう何度目の事だろうか。新しく貰った台本を読まなければいけないのに、こんなに暗い街頭の下では、文字なんて読めないのに。
 至極非生産的で無駄な時間を過ごしている自覚はある、どうせもういるはずがない、そうとは思いつつも尻ポケットに入っている手紙をつい探してしまっては、だからどうした、とくだらないと自分に突っ込むことしかできなかった。
「……さむっ」
 ぼうっと周囲を眺めていた体感時間はたったの数分間、ぶるり、肩を揺らしては楽しそうに遠くで遊んでいる小学生の集団を見ていた。
 気付けば時計の針が半周していた事実に気付きたくはない、いい加減帰るか、と重い腰を上げると同時に、はやく台本を読み込まなくては、と重い溜息が出た。
 あのふかふかな広いベッドは想像以上に寝心地が良すぎるのが良くない、全く進んでいない台本の読み込みと手紙の両者を思い出しては、コンビニで珈琲でも買っていこうと欠伸をしてしまった。
 すっかり冷えた手を携えながら、ぐてっとした首をコキコキと鳴らして、今日も疲れたな、と年甲斐にもなく思ったと同時、後方で、車のエンジン音に掻き消されながらもぱたぱたと翔ける音がした。
不規則で下手なそれ、軽い足音は子供の走る音だと背中に感じては、転びそう、と、然程興味もないままに再び欠伸を手で隠した。
 ぱたぱたと走る音が明らかに近付いていると知ったのは自分の歩幅で五歩歩いてから、ぎこちない音が全力で近付いでは、―――ぼすん! 突然、腰に衝撃が走った。
「、ッてえ!!」
 あァ?と柄悪く振り返ってしまうことも仕方のないこと、絶対転ぶ、と思っていた足音が見事に転び巻き込まれたのだろう。振り向き様の眉間に皺が寄り切っていた自覚はある、子供ながらに衝撃は大きく、思わず足を止めてしまった。
 いってえだろ、と窘めようと無意識に舌打ちまでしてしまった―――けれど。
「―――……」
 暗い視界の中、見覚えのある顔がぐしゃりと歪みながら此方を見上げてくるそれは一週間以上脳内を支配していたものと一緒で、一瞬、衝撃に痛んだ腰も忘れて眼を見開いてしまった。



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