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「え、」
 ようやく口から発したのはそんな一言で、にやりと笑った蓮が半ば無理矢理に健悟の手中へと握り込ませて来て、得意気に顔を緩めていた。
 紙を見れば太めのクレヨンでがじがじと書かれた平仮名の山々、住所を書いているのだろうがどう考えても解読困難なそれに一瞬頭を抱えたけれど、期待を込めて裏側を見れば大人っぽい字で訂正とでも言うようにもう一度書き直されていることに、ほっとしてしまったこともまた事実だった。
 つまり言い換えれば、蓮自身も、その後ろに居る文字の主も、自分に住所を教えても良いと、連絡を許可してくれたと、そういうことだろうか。
 文字を書けたことを褒めて欲しいのか輝きに溢れた目が訴えてくるのだから、求められるそれが分かりつつも自分では到底言いそうにない言葉を選んで贈ってしまった。誰も見ていないからと、目の前に居るこの子供にだけならばと、できる限り優しい言葉を掛ければ思った通りにふにゃりと頬を溶かすものだから、素直になることもまた、良いことなのかもしれないと、こっそり思ってしまった。
 確かに一番欲しかったのは彼とを繋ぐこの住所だけれど、なぜそれが分かったのだろうか。そう問えば、自信満々に小指を立てながら、「約束したしっ!」と元気に笑われてしまった。
 掛けられた言葉に引っかかる部分があって、まさか、と思いながら再度紙を眺めると、鞄にずっと入れっぱなしだったのか紙の端が折れて、中ほどもよれてしまっていた。見覚えのある汚れ方は自分の尻ポケットに女々しくも入り続けているそれと酷似していて、もしかして、と期待する心臓がとくんと一度高鳴った。
「……なぁ、何、もしかして……蓮、俺のこと、探してた?」
 否定を覚悟で訊けば、一度きょとんとした顔をしてから、さも当然のことのようにぶんぶんと頷かれてしまった。
 いっぱい探した、と笑顔で言われれば寒空の下で蓮を待っていた自分と被っては、何故だか急に胸がざわついた。
「、あー……マジか、っだよ、それ……」
 此処最近は本家に立ち寄ることが多かったからか、時間帯が合わなかったからか。何れにしろ擦れ違っていたらしいことは事実で、たかだか二度会っただけの自分に約束を果たすというそれだけで探していてくれたことは、すごく嬉しかった。
「おっまえ……かわいすぎんだろ」
「わっ!」
 はぁ、と溜息を吐きながら頭をぐしゃぐしゃと掻き廻してしまったことは仕方がない、愛犬の如くわしゃわしゃと抱き締めてやりたい衝動を堪えながら、褒められたと勘違いしては喜んでいる蓮を見た。
「……なぁ、こっちに来たのは旅行なんだよな、いつ帰んの?」
「? あした!」
「―――」
 マジで、とすら言葉にならず空気に溶けた。本当に今日逢わなければ住所を知ることもなかった、連絡を取る術が殆ど絶たれていたかもしれないと思っては恐怖からかぞくりと肌が粟立ってしまった。
「そっか、帰っちまうのかぁー……」
 ほんの少しだけ身体を過ぎった動揺を隠し去るように、寂しいという言葉は抑揚だけで伝えた。たかが少しの時間だというのに、些細なことだけれど何よりも大切なことを教えてくれた子ども、こんな真っ直ぐな子供は、どんな大人になるんだろう。
 今までずっとこうだったんだ、汚れたりもせず、田舎の町でゆっくり育つのだろうか、誰にも染められず、このまま育ってほしい気もする。
 成長を見てみたいと芽生える衝動と同様に、見知らぬ静かな町でゆっくりと育っていてほしいという矛盾。
 ただひとつ思う確かなことは、この前のように、今日のように、傍らで励ましてくれればそれだけで―――何よりも、やる気が出るのに。
「……もー、うちの子になる?」
「?」
 そう思っては、ぼそり、つい言葉にして吐き出してしまった。
 案の定意味が分からなかったのか蓮は首を傾げていたけれど、お生憎様、此方は些かの本気が含まれていた。
「……うそだよ、ばぁか」
「! ばかじゃないしっ」
 こつん、とくしゃくしゃになった頭を小突くと、馬鹿、の意味だけが的確に伝わったのか、ムキになって野良猫のように毛を逆立てているようだった。
「あーはいはいごめんごめん、れんくんは頭良いですよっと」
 逆上する様子を手懐けながらくくっと笑うと、その態度が気に障ったのか、随分とむうっと頬を膨らまされてしまった。
 けれどもやはり髪の毛を撫でられることは気持ちが良いのだろうか、頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜれば少しずつ嬉しそうな顔をするものだから、子どもという生き物はこんなにも現金なものだったのか、と知らぬ一面に頬を緩めてしまった。
 貰い立ての連絡先が嬉しくて浮かれている自覚はある、今の家にも本家にも、帰ればまた一人の生活だけれども、今だけは心が温かくなることが分かった。
 未だ手中にある連絡先の紙を見ては、ポケットに入れておいたまま行き場がなくなる寸前だった手紙の存在が再び頭に浮かんだ。先程は浮かれすぎて失念していたけれど、そうだ、良く考えてみたら、自分だって渡したいものがある、この小さな子どもに、伝えたい言葉がある。
 そう思い、蓮の頭から手を離して、両手をポケットの中に突っ込んだ。
「あー……、そういえば、」
「あ!」
「?」
 しかし、がさごそと探っている最中に、蓮は大きな声を上げてから、一段と嬉しそうに破顔した。
「りかっ!」
「あ、おい」
 そして、あっさりと目の前から立ち上がった蓮は、探し人を見つけたという報告をいち早く利佳にも伝えたかったのだろう、ぱたぱたと下手くそな走りで遠退いていくものだから、所詮は姉の存在に勝てるわけがないか、と大きな溜息を吐くことしかできなかった。
「あー……ねぇちゃんネ」
 取りだした手紙を中指と人差し指で挟み、ぴらぴらと空中を泳がせる。
「ったく、仕方ねぇな……」
 少しだけ愚痴りながらも、蓮に渡したいそれをまたポケットの中へと突っ込んで、嬉しそうに駆けていく小さな背中を追い駆ける。
「ほらおまえ、走るなって……」
 呆れたように小走りをすれば、ストライドの小さなそれにはすぐに追いついた。
 そして、道路を挟んだ向かい側に以前対面した記憶のある姉の姿を発見した。利佳との距離は近いと雖も道路沿い、危ないだろうからと蓮に手を伸ばそうとした、―――その瞬間。

「―――――……」

 言葉も無くし、重い空気だけがヒュッと身体に沁み込んだ。
 外の寒さも忘れてカッと熱くなる身体、拳を握った瞬間に道路上でぴたりと停止した蓮の身体が視界に入り、たった一瞬で非日常の世界に潜り込んでしまったことに気づいた。




「、―――……レンっっ!!!!!」




 道路を越えて聞こえた甲高い叫び声は蓮に届くことはない、周囲一帯に響く轟音が世界を支配した途端、頭の中なんて、いとも簡単に白一色へと染まってしまった。




 ……ビ――――――――!!!!!




 そして、ただひとつ頭に響く音は、大きなクラクションの音。
 遅すぎるブレーキ音はまるで遠い世界で聞こえてくるもののようで、現実感のないそれに意識がついて行けぬまま、視界には真っ白な光に照らされている蓮だけが映っていた。





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