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「……いって、……」
 段ボールの角に脚の小指をぶつける、という古典的な出来事に眉を顰めた。床に散らばっている段ボールの山を掻き分けて、ざくざくと進んで行った先、部屋の一番奥にある段ボールに書いてある日付は五年も前のものだった。探せばきっと、もっと古いものも出てくるのだろう。
 段ボールという仕切りがなければ部屋が埋め尽くされ潰れてしまいそうな数の中、ひとつひとつに想いが込められているだろう手紙、そんな膨大な量をいま住んでいる家に持ち帰るのは不可能だ。
 それでも、これを読む責任が、自分には、ある。
「…………」
 改めて部屋を見渡してみて、呆けるようにただ部屋を眺めては圧倒された。自分のことなのに、こんなにも知らないことがあるなんて。
 初めて手にしたファンレター、一通目のそれを壁に寄りかかりながら読み進めれば、何度も何度も好きだという単語が出てきた。目に入るのは、ずっとずっと応援している、という温かいメッセージ。
「、……ずっと、か……」
 ぽつり、発した言葉は部屋には吸収されることなく消えていく。
 ずっと、という言葉を自分から発したことは、誰かと約束したことは、一度でもあっただろうか、そう思ってしまったからだ。
「…………」
 そもそも俳優になった理由なんて、だれかに覚えていてほしいと、だれかに見てほしいと、それだけだった。
 引退したアーティストの曲が未だ語り継がれているように、見古した俳優に未だオファーが絶えないように、誰かが自分のことを少しでも覚えていてほしいと、終わったことにしないでほしいと、自分の知らないところで見ていてくれる人が誰か一人でも居ればと、ただそれだけだったのに。
 ずっと一人で、この広い部屋にずっとずっと独りで、自分が消えても誰も気付かないだろうこの空間が嫌だっただけ。誰も知らないなんて、嫌だっただけだ。
 哀しかった、寂しかった。だから誰かの心に残る仕事がしたかった、ただ、……それだけだったのに。
この手紙を読んで、こんなにもたくさんの声を見て、自分の名前が、地位が、姿が、知らないところで必要とされていることを初めて知った。誰かが見ていたことを、こんなにも近くで感じることが出来るなんて思わなかった。
 そんなことがなによりもうれしくて、誰かに必要とされている気になって、云い表せない昂揚が身体を走っていく。
 ずっと、なんて未だ分からないけれど、今この瞬間、自分の知らないところでも、確実に自分を応援してくれている人が居る。そう思うだけで、今すぐに何かをしたいような、早く現場に行って動いてみたいような、むずむずと痒い衝動が背中で疼いてしまうのは、気のせいではないのだろう。
「、……あー……、……なぁんだ……」
 ……目的なんて、ずっとずっと達成してたのか。
 ただ、俺が知らなかった、それだけで。
 ……きっかけをくれたのは、あの子供だったな。この感覚を、いちばんに教えてくれたことも、彼だった。

「…………あー、こういうとき、かぁ……」

 ありがとう、って、ただ伝えたくなるときは。

 もう逢わないだろう子供が脳裏に過ぎっては、小さな切っ掛けをくれた彼に少しの感謝をする。
 もし近い将来逢えたなら、言いたいことがある。伝えたいことがある。それがいつになるかは分からないけれど、長い人生、楽しみにしておくのも、良いのかもしれない。
「、げ……」
 ふ、っと自然と笑顔が零れた瞬間、腹がきゅるきゅると空腹を訴えては一気に力が抜けてしまった。台なし、と自分で呟いたところで誰ひとり聞くものはいない。それなのに、どこか一人ではないような気になってしまうのは、一体なんなのだろう。 
 ただちょっと、すこしだけ、光が射したというそれだけで。
「、あ゛ー……」
 柄にも無くはしゃいでいる自分に気付いては恥ずかしくなる、こんな顔では現場に顔も出せないと、むにむにと頬を引っ張りながら一旦部屋を出た。
 なにか食べる物でもないかな、と思いながら螺旋階段を降りていくけれども、きっと何もないだろう、近くのコンビニに行けるようにポケットに財布を入れながら移動する。
 移動した先、綺麗に磨かれ揃えられたキッチンに見覚えがないのは、小さい自分では高い部分が見えなかったから、此処に立つ必要性もなかったからなのだろう。生活感のないそこは使用されている気配もなくて、まぁナイだろうな、と希望も持てぬままに冷蔵庫を開いた―――が、その奥に広がる光景に、目を見開くことしかできなかった。
「、」
 ……食料が入ってる、それも、あえて日もちするものばかりを選んで。
 急かすように冷凍庫を開けば、そこには冷凍されたそばもうどんも入っていて、賞味期限を見ればまだ先のモノばかりだった。
 だれのためだ、と考えながら眺めていると冷凍庫の奥にソーダ味のアイスが見えて、ギクリとする。
 見なかったふりをするようにパタンと扉を閉めて、次に手を伸ばすはキッチン下の広い棚、そこは小さな自分でも手が届く唯一の場所だった。今ではもう簡単に開くことが出来るそこを開けると、調理が簡単なレトルト食品と桃缶が目に入る。仕事帰りにお腹が減ってこっそり食べていた二つ、当時は勝手にぽんぽん出てくるものだろうと思っていたけれど、今考えればとんでもないことだ、きっと自分が食べているのを知っていたからこそ、順次買い足されていたのだろう。
「…………、」
 冷蔵庫のアイスも棚の備蓄も、ああ自分のためかと、小さなころにいつも完食していた自分を思い出した。
 誰の差し金だろうか、よく覚えていたなと、もうそんな好きじゃねえよと、懐かしさが溢れると同時に、それ以上に溢れそうな目頭の熱さに急いで棚の扉を閉める。
「……くっそ、」
 気を落ち着かせるかのように視界に入った水道を捻れば、ジャァ、と水の流れる音。水道は、通っている。きっと電気も点くのだろう。誰が使うかもわからない家なのに、この家の光熱費はずっと支払われていたのだろうか。そんなことを思っては、わざとらしくこの場所を敬遠していた自分が恥ずかしくすらなる。
 ザーザーと流れる水の音が世界を支配しては、戻るべき場所が未だあるのだと、こんなにも近いところにも、待っていてくれる人が確かに居たのだと、当てのないことを思ったからだ。自分が知らなかっただけで、気付かなかっただけで、……ここは、受け入れてくれようとしていたのかもしれない。
「、チッ」
 ……とりあえず今日は、今日だけは、未だ綺麗なあのベッドで横になるのも良いかもしれない。部屋の広さに負けることのないベッドは、ぽつりと真ん中で蹲っていた子供の頃の自分なんかよりも遙かに、いまの自分に沿いそうだ。
 ふと時計を見れば長針と短針が重なりあっていて、時間の流れの速さを痛感した。
 やりたいこととやるべきことが両方ある、まずはあの段ボールの中身を整理して、台本ひとつで仕事に行って、そして、戻ってこよう。まだまだ、やるべきことはたくさんあった。
 いつの間にか違ってしまった帰る場所、それがまた戻りつつある感覚は言い表せない、けれども確かに気は急いていて、こんなにやりたいことができたのはいつぶりだろうと、まるで子供のような感情に身を委ねながら、キッチンの棚の扉を開いた。



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