32
「………………」
 ざっ、とコンクリートの道路を強く踏んだことにすら意識が持って行かれる。五感が過剰に反応している理由なんて他でもない、数年ぶりにこの家を、この高い家を見上げているからに他ならない。
「…………」
 東京の一等地のど真ん中を高く広大な壁で仕切っている巨大なスペース、車の通れるだけの大きな門の脇にあるインターフォンを一瞥してから、正門と比べれば遙かに小さな通り口の前に立つ。
 うろ覚えの暗証番号は小さい頃の薄れた記憶で、眉を顰めながらゆっくりと打ち込んだそれで開錠するとは、正直、思ってもみなかった。
「…………、」
 扉が自動で開きまず初めに驚いたことは、家を眺めるよりも前の段階、未だ庭の花が整備されていたことだった。恐らく誰も住んでいないだろう家なのに、子供の頃に見た風景と変わらないそれがある。
 季節ではない故に花は実ってないけれど、冬の寒さにも負けない枝に思いを馳せれば、真っ赤なサルビア、青紫の桔梗、白いマーガレット、子供の頃に見た風景がふっと頭に浮かんできたからだ。
 いまでは此処に住んでいた記憶すら曖昧だけれども、どこか懐かしい感傷に心臓を掴まれたことは間違いない。少しだけ雪の積もる庭をゆっくりと歩いていくこの瞬間にも、段々と、自分ですら忘れていた記憶が少しずつ蘇ってくることが分かるからだ。
「、…………」
 玄関からは約三十メートル、その場所には小さな離れ家が在る。殆ど倉庫のようなそれだったけれど、離れ家の玄関前に置かれている犬を模った木彫りの置物が目に付いた。
 ……その真下にあるものを、知っている気がしたからだ。
 変わっていなければ。あのときのまま、ならば。
 ごくり、息を飲んでから見た目ほど重くはない犬の置物を持ち上げる。小さいことは動かすことすら大変だった気がしたけれど、これは、こんなにも軽いものだったのだろうか。
 綺麗な家からは想像できぬ薄汚れた像の下を手で擦っていると、突然―――チャリ、と小さな音がした。
「………………ある、し、」
 思わず出てしまったのはまるで力が抜けてしまいそうなか細い声。
 何年放置されていたのだろうか、昔から決まっていた定位置に、細く小さな鉄の塊を見つけた。
「…………」
 不安になりながらそれを手に取れば、やはり長らく放置されていたのだろう、黒く煤けていたものの、記憶していたそれに間違いはなかった。
 本家の鍵。それが此処に放置されたままになっていたことは、ただの偶然なのだろうか。
 手が汚れるのも気にせずそれを握り締め、枯れきっている花々の間をざくざくと進んでいく。いま見ても大きな屋敷、首が痛くなるほどに見上げることしかできない家、あのころ、小さな自分は、ただ圧倒されていただけだった気がする。
 少しだけ大きくなった身長で玄関口に立てば、あの頃よりは、ゆっくりと息を吐き出せた。昔のように帰らぬ誰かを待ち続ける必要はない、自分はただ、やるべきことがあってここに戻って来たのだから。
「……、」
 ―――ガチャリ。
 開錠された音に僅かに背を震わせども、その姿を見ている者は誰もいない。
 ごくりと喉を鳴らしてから一瞬だけ息を詰めて扉を開けたけれど、相変わらず十年前と変わらない、ここだけ外の世界とは切り離されたかのような静かな空間が広がっているのみだった。
「…………うーわ、」
 なつかし、とは口にすることなく飲み込む。
 下手な映画のセットよりも幾分か豪華な空間は、今になって漸く、どれだけ手の込められたものなのかが分かったような気がした。躓いて割った骨董品の数は数えきれないけれども、もしかしたら、どれも貴重なものだったのではないだろうか。それこそ、今の自分ですら払えないような額の。
 ぶるり、下手な想像に背を震わせている間にも、家の中からは物音ひとつすらしなかった。
 誰も居ない空間は、一足たりとも並べられていない靴からも伝わる。不必要に大きな下駄箱から靴を取り出した気配すらなければ、あるべきはずの土埃すらないからだ。
「、……ん?」
 しかし靴を脱いで中に入っても、自分が想定していた惨状は広がっていなかった。
 玄関同様、使用されている痕跡はないけれど、床、机上、窓ガラス、大きな薄型テレビの画面すら、そのすべてが綺麗に磨かれていたからだ。
「うーわ」
 マジで、と消え入るような声が出てしまったのは、最後に此処を出たときよりも幾分か物が変わっていたからだ。
 現にこの大きすぎる薄型テレビなんて、電気屋でしか見たことのないような悪趣味な大きさをしている。見渡す限り、懐かしい、と、知らない、が半々ずつ混ざり合っているような部屋、これは誰が何のために購入したものなのだろうか、誰が、使用しているのだろうか。
 きょろきょろと辺りを見渡せば広すぎるリビング自体には当然見覚えがあり、広いそこにぽつりと浮いている十人掛けのテーブルを見て、つい肩を揺らしてしまった。
 所謂誕生日席に座っていた幼い自分がぼんやりと見えた気がするそれ、端の一席以外を使用しているところは見たこともなく、あの時の自分にとってこれは、この家の静かさを増長させるだけのものだった。大きすぎるテーブルの上、誰がつくったのかも分からない冷たいご飯を温め直した経験は、両手両足指数えてもまだまだ足りないくらいだ。
 ポケットに手を突っ込みながらゆっくりとそこに近付けば、分かってはいたけれど、ドラマの中で演じたような生活感のあるテーブルは存在せず、テーブルクロスも調味料も何も置かれていない、綺麗に磨かれたピカピカのテーブルがあるだけだ。
 大理石だったのか、と気付いたことすら今この瞬間、自分の暮らしていた家なのに、知らないことが多すぎる。
 ―――それはきっと、誰にも聞こうとしなかったからなのだろうけれども。
「…………チッ」
 無駄な感傷に引きずられそうな現状に、見て見ぬ振りをしながら背を向ける。
 リビングを抜けた廊下の先、上が見えぬ螺旋階段を見上げれば、視界には存在しないその先にある部屋が脳裏を過ぎった。突如沸いて来た記憶は意外にも鮮明で、子供には広すぎた一人部屋を思い出す。独り膝を抱え泣いていたあのころ、自分は、どんな気持ちだったんだろう。
 カン、カン、ステンレスの螺旋階段を一段ずつ上り、進んでいく度に姿を変える視界、昔見ていたはずの視界よりも余程先が見えるのは、それだけ自分の背が伸びたということ、それだけ成長した証とも言えるのだろう。
 階段をのぼり終えれば無機質な廊下が広がっていて、歩くのが億劫になるくらい先まで重々しい扉が犇めき合っていた。
 自分の家だというのにまだまだ踏み入ったことのない場所があるということ、それが可笑しいと気付いたのは、この業界で“普通の家族”とやらを演じたときだった。
 目の前にある視界の限り、そのすべてに表札の一枚すらない荘厳な部屋が並んでは、その重苦しい雰囲気に中てられて拒否されている気分に陥る。
「……くっそ」
 自分の記憶が正しければこの廊下を左に進んで三番目、未だに何の彫刻かも分からない重い扉が、自分の部屋……だった。
 廊下に敷いてあるふわふわの絨毯はスリッパ越しにも効力を発揮している、歩く度に沈むそれを無視するように進んで扉の前に立つ。ああそうだ、この高さ、取っ手の位置が自分には高すぎて、部屋に入るだけで苦労した。
 ―――こん中って、どんな部屋だったっけ?
 屋敷の中を歩く度に埋められていった記憶のピース、回収できていない部分はきっと、大部分がこの部屋のことなのだろう。
 ごくり、この家に来てから何度目かも分からない決心をして、今ではもう簡単に手が届くドアノブを握った。
 どうせなら、と勢い良く一気に開けて、楽しみ半分恐怖半分、目の前のものを受け入れようとしていた―――が。
「……あ、……れ? え、」
 ぽかん、情けない声を出しては塞げなくなってしまった唇、生放送でこの顔をすれば確実に社長からお叱りを受けそうな顔をしてしまった。
「……?」
 だって、……見えない。
 扉を開ればその中には当然部屋しかないはずなのに、その肝心な部屋の姿が、概要が、まったく見えないからだ。もしかして部屋を間違えたか、と廊下を見渡したけれど、部屋前の柱につけた傷が目に入り、やはり自分の部屋だと知る。
「? どうなってんだ……」
 眉を顰めながら、ぽり、と頭を掻いたところで現状は変わらない。
 何段にも重ねられた段ボールは座るところすら奪ってしまいそうな量に達していて、カーテンのところまで歩くこともできないのだろう、幾分か暗い部屋は見たこともない顔をしていた。
 段ボールに埋め尽くされた部屋、というのは引越しのシーンで見たことがあったけれど、これの比ではない。隙間を縫って見える部屋の奥の方、端に積まれている段ボールは人の身長よりも高く積まれていて、今の自分の身長ですら一番上には届かないだろうと頬を痙攣させることしかできないからだ。
「おいおいおい……まさか、なぁ……」
 大量の段ボールに心当たりがあるのは一つだけだったけれど、まさか、そんなことは、そう思っての苦笑い。
 家に来た宅急便を、自分の部屋を倉庫代わりにされているだけなのだろうか、そんな線を想定しながら恐る恐る配達届の確認をする。そして、送り先を薄眼で覗いては、やはり顔を強張らせることしかできなかった。
「………………マジ、デ?」
 渇いた声が示すのは一番危惧していたパターンで、想定していた通りの送り先、事務所の名前が堂々と書かれている。
 ずっと見てきた文字は泉の文字に間違いがない、さあっと青褪めながら隣の箱を見て、まさかと思いながらその下の箱を見て、そのどれもが、同じ住所、同じ宛先からのものだった。違っていたのは送った日だけ、日にちはバラバラだけれども、ひと月に何度も段ボールが送られてきているようだった。
「……マジかよ……」
 辺りを見渡せば、最も手前に置かれている段ボールの蓋が開いていて、不自然に開かれたそれに疑問を持ちながら手を伸ばす。
 はらりと段ボールを捲れば中には収容範囲ギリギリまで手紙とラッピングが敷き詰められていて、事務所で見た光景と全く同じそれが窺えた。
 ただ違うのは、手紙の中身ではない、今この瞬間、この段ボールだけ蓋が開いていたという事実、それだけだ。
「………………、」
 そういえば先日、あのひとが家に来たと、そう言っていた。

 ―――……まさか、……これを見た?

 ……勝手に来て、勝手に見て、勝手に、……元気にやってるって、そう思っている? 俺のこと、俺の、……いまのこと、……知ってる?
「、ッ」
 勝手に出てしまった舌打ちを一回、顔も忘れてしまいそうな父親に何を思うことがあるのだと、少し折れた段ボールの端に見て見ぬ振りをしながら開封した。
 恐る恐る中を見れば、やはり数十分前に見ていた光景、段ボールから溢れんばかりの便箋と、丁寧なラッピングが世界を支配する。
 数を数えることすら億劫になる手紙の山、信じられない光景に胸をざわつかせながら手を伸ばせば、可愛らしいピンクの便箋に、負けないくらい大きく桃色のハートが泳いでいた。
「…………、」
 中身を見ずとも溢れ出してくる好意、既に開封されている封筒から薄い紙を取り出せば、可愛らしい便箋に可愛らしい文字が滲んでいる。挨拶よりも先に綴られた好きですという四文字を読んで、ぴくりと肩が震えた気がしたのは嘘ではない。
 流すように目を通しただけ、それだけでも信じられないくらいの温かい言葉が広がっていて、受け入れて良いのかすら分からない現状に、目を瞬かせることしかできなかった。
 本当に自分宛か、と便箋を確認しては胸を下ろす。昔の作品名が挙げられては拙い演技を評価されて、顔に熱が集まる。そんなところまでみているのか、と自分の頬を触っては、耳が熱いことを自覚した。
「、」
 一通目の手紙を読んでいた途中、ふと我に返って部屋を見渡せば、相変わらずところ狭しと段ボールが敷き詰められていた。
 たくさん重なっているそれを確認すると時系列もばらばらに並べられているようで、もしかしてこれ全部、と思えば気が遠くなりそうだったけれど、くらくらする脳内とは反対にどきどきと胸中が弾んでいることには気付いていた。
 手紙を読んでいる最中だというのに耐えきれず、隣の段ボールを開封する。
「……うっそ、」
 明らかにブランドもののショップバッグが見えたけれど、これを事務所が渡してきたということは、好きにしろと、そういうことなのだろう。
 駄目だと分かっているのに、使えないだろと思っているのに、それでも、確かに心臓だけは忠実に喜びを示していた。
 高価いものが貰えたから、なんてくだらないことではない。
 だって、いままでずっと、誰のためかも分からない、ただ自分のためだけに、ただ必死で。
 ……それなのに、そんな自分を、見てくれている人が居た、って。
 それだけで、好きと云う一言を目にするだけで、ぞくぞくと腕が粟立った。

「ッ、」

 ……思えば、だって、…………誰かに物を貰うなんて、そんなこと、……なかった、から。

「…………」
 父親から貰った香水ひとつ、自分が誰かにもらったものなんて、そんなものだ。
 靴箱の中に入れられた軽い気持ちのラブレター、そんなものとは比べ物にならないほどに強い何かが込められているようで、柄にもなく泣きそうになってしまった。
 どくんどくんと煩い心臓が今の状態をまさに表していて、一通目でこれならばこの先どうすれば良いのだと、言い表せない感情を燻らせては、己の身長よりも高い手紙の山を見つめることしかできなかった。



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