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「ご飯食べてるのかって心配してたわよ、このまえ」
「ハッ、ぜってー嘘」
「本当だって。日本に来てあの家に行ったのにあんたが居なかったって、そういってた」
「………………は?」
 思わず珈琲を落としてしまいそうになった右手を制して、隣に居る女性を見つめる。
 漸くとでも言うように鞄から煙草を取り出した綾菜が健悟にも煙草を渡そうとしてきたけれど、そんな余裕もないと顔に出てしまいそうなほどに狼狽えながら、首を横に振った。
 煙草に火を点けるだけの二秒如きがとても長く感じられて、自分でも硬い表情をしていると、目の前の人物からの瞳を見ては思う。
「定期的にハウスキーパー雇ってるみたいだったから綺麗だったけど、綺麗すぎて使ってる形跡がないってさ。あんたいまどの家住んでんの?」
「、……渋谷の、あそこ」
「あー……あっちか。聞いとけば良かったね、ごめん」
「……べつに」
 所詮は親が残した家が東京だけで四つある、帰る家なんて日によって違うけれど、俗に言う本家だけには立ち寄る習慣なんてない。
 悶々と燻る心臓に眉を顰めたとき、泉が珈琲を持って来ては綾菜に手渡した。少しだけ聞こえていた会話に、苦笑いを浮かべながら。それはそうだ、一度だって、こんな話はしてこなかった。
「じゃああれか、手紙とか送付先変えた方が良いね。戻されないから普通に受取れてるんだと思ってたわ」
「手紙?」
「…………は?」
「え?」
 疑問に思ったフレーズを聞き直せば、その瞬間に綾菜の手は止まり、白い息が少しだけ漏れた後に、無言の中、先端だけが灰に変わっていく。
「、だれからの?」
「………………」
 不審に思いながら問い直すと、余程慌てているのか吸い始めの煙草を灰皿に潰しては大きく目を開いてくる。
「…………え、ほんとに届いてないの?」
「……は?」
「……泉」
「すみません……確認不足です」
 さあっと青褪めるかのような表情、明らかにトーンの落ちた声が上から届いては溜息が加わった。
 確認不足というのは自分宛の言葉だろうか、と健悟が疑念を持ったところで答えは出ない、泉との会話は至極事務的なことのみで、今日話しているのも不思議なほどだと、そう思うからだ。
「……ちょっと待ってて」
「あー……おれ持ってきます」
「?」
 額に手を当てた綾菜が腰を上げようとすると、泉が苦笑しながら隣の部屋へと消えていく。
 扉を開けば先程よりもざわざわと騒音が聞こえてきて、ようやく社員が出勤する時間になったのだろうと、こんな時間に来たこともない自分は初めて知った。
 会話もないままに扉から聞こえるノックの音、まるで蹴るようなそれに自分で開ければ良いかと思ったけれど、綾菜が何も言わずに立ち上がったことで大方の事を理解した。扉を開き現れた泉を見れば、理解せざるを得なかった。
「………………これ、半月分」
「、」
 どすん、と机上に置かれた段ボール。覗き込まずともピンクや青が溢れんばかりに敷き詰められていて、薄い紙とラッピングで段ボールが埋まる光景を初めて見たと、言葉にすることもできなかった。
「、」
 え、と衝撃が言葉にならず上を向くと、申し訳なさそうに溜息を吐いている顔が二つ。視線を下に落とせばその全ての封が開いていて、既に確認済ということなのだろうか。こんなにも、膨大な量を。
「あっちにまだあるから」
「…………は?」
 持ってくる? と泉に言われたけれど、どれだけあるのだろうと口元を引き攣らせては首を横に振ることしかできなかった。
 段ボールに重ねられたそれを一枚手に取れば、長い間付き合ってきた自分の芸名、本名よりも馴染み深くなってしまった名前がそこにある。
「……悪いけど手作り系はこっちが勝手に処理してるから、先に言っとくけど」
「…………」
 半月という短いスパンに送られてくる量とは思えない手紙と差し入れの量は俗に言うファンレターというもので、詰められているだろう想いの強さを想像すればそれだけで鳥肌が走ってしまいそうになった。
「見てないんだったら……うわ、相当溜ってるんじゃない? 何年分よ……本当に一回も見てないの? 一枚も?」
「……見てない。帰ってない」
 小さく首を振れば分かりやすい溜息が返ってきて、ごめん、と小さく告げられた。
「…………何も言わないから、見ているものとばかり……申し訳ない、こっちのミスだわ」
 額に手を当てながら苦い顔をしている綾菜、そんな表情を見た記憶は長い付き合いでも存在しておらず、それほどまでに深刻な量が家に留まっているのだろうかと背が震えた。
「ヘルパーさんから話行ってる? これのこととか……聞いてない?」
「……ねえよ」
「……正直、見てもいないもんだと思ってたわ。そういうことか……」
 どんだけ酷いの、俺、と返そうとした瞬間、ああそう見えていたのかと、少しだけ納得することが出来た。
 喋らなければ分からないことが、もっともっと、まだまだたくさんあるはずだ。
「……言おうぜ、そういうことは……」
 つられて自分も溜息吐けば、チッと予期せぬ舌打ちを受ける。
「ばっか、昔あんたに直接渡したらいらないって言われたんでしょうが。そんな嘘ばっかの手紙いらないだのなんだの言って受け取らないし……だから家に送ってたっつーのに……」
「……おぼえてねー」
「そりゃそうでしょ、あんた子供だったんだから」
「社長、今も充分子どもですよ」
「それもそうか」
「…………」
 揶揄するように鼻で笑った二人を睨むと、ごめんって、と小さく笑いながら綾菜が謝って来た。
「ガキの言うこと真に受けるんじゃなかったわ、私も。あんただって成長してんのにね」
「…………成長、って」
「そうでしょ」
 むずむずとした何かが背を走っては、目の前にある膨大な量の手紙と、届いているのだろうまだ見ぬそれを思い出してはぞくりと肌が粟立った。
「………………社長」
「ん?」
 少しだけ眉を上げて若干の口角が上げられる、此方の話を聞く意思があると、話を聞いてくれるという柔らかさを持つ瞳に一息飲んでから、小さく口を開いた。
「……おれ、今日、……はやく……帰りたいんだけど、」
 斜め下を見て目を配らずに言った言葉だったというのに、ふっと笑った表情は漏れた吐息から伝わってくる。
「初めてじゃん、あんたがそんなこと言うの」
 くっくっと笑いを堪えながら珈琲を口に運ぶ姿からはまるで子供を揶揄するような表情が伝わってきて、ふいっと顔を背けることしかできなかった。
「やーっぱ、なんかあったんだ?」
「……っせぇ」
「いいよ」
「、」
 にやにやと不躾な微笑みを顔に携えた数秒後、至極真面目な声音で聞こえたのは承諾の音。
 今日来るの早かったからね、と加えられればまるで子供に与えるご褒美のようで、馴染のないそれに少しだけ心音が高鳴った。
「あとでメールするから。確認してくれれば」
「…………あ、」
「ん?」
 喉に絡まる音に一旦落ち着いて、一息飲んでから、また小さく唇を開く。
「……アリガトウ、ござい……マス」
「………………」
 ぽかん、と開いた二つの口を見ていれば此方の方が恥ずかしくなってきて、チッと舌打ちをしながら綾菜の細い足を蹴り付ける。
「っだよ、」
 見んな、と言った瞬間に聞こえた音はふたつ、ブハッと盛大に噴出した音は明らかな笑い声で、くっくっくっと後に繋がる音に自分が笑われているのだと気付いた。
「……いや、まさかあんたから御礼言われる日が来るとは思わなくて」
「っさい、マジで」
 俯きながら鞄を手にして、ぜってーメールしろよ、と舌打ちしながら立ち上がった。
「帰る」
「あ。午後の撮影、遅刻すんなよ」
「しねぇよババァ」
「殺すぞガキ」
「収入激減すっぞクソババァ」
「はやく帰れクソガキ」
 細いヒールで脹脛を蹴られて、ふざけんなと蹴り返してから部屋を出る。
 やり返すところがガキなんだと、と笑った声が聞こえたけれど、そんな声も拾わずに、抱えたことのない心音と期待を抱きながら、立ち入ることのない家へと向かった。
 期待で痛む心臓なんて、いつぶりのことだろう。



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あきゅろす。
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