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* * *


「あれ……一番乗り?」
「…………」
 事務所に入った瞬間にきょろきょろと周りを見渡すマネージャー、―――泉 総一郎(いずみ そういちろう)から届いた声。

 事務所の鍵を使って勝手に開けて入ったことは初めてで、当たり前に用意されていたコーヒーも電気も暖房も、誰かによって齎されていたものだと、初めて知った。
 作り方も分からない珈琲を入れた後で、皮張りのソファに背中を預けながら確認する雑誌、嘘だらけの自分のインタビューを見れば今更ながらに真っ新な笑顔が頭を過ぎっては、二度と逢わないかもしれない子供を思い出した。
 そんなときに降って来た声に向けて少しだけ目線を上げれば、未だ驚嘆に身を委ねているマネージャーの姿、ぽつりと口を開けばその瞬間、みるみるうちに双眸が大きくなっていった。
「……どーも」
「、挨拶?」
「…………」
 静かに空気を裂いた声音はスーツに身を包んだ黒髪から。肩につきそうなまでの黒髪が与える印象はそれでも爽やかなもので、マネージャーにしておくには勿体無い整った顔は既に幾度も事務所からスカウトを受けていた。それでも健悟のマネージャーを希望している可笑しな主から降ってきた不穏な声音に、健悟が眉を顰めると、何か信じられないものを見るような眼を向けてくるものだから、これが正当な評価だと、再び小さな黒髪を思い出しては少しだけ溜息を吐く。
「……ドラマ」
「え?」
「あの、例の監督の」
「ああ、」
 忘れていたかのような反応に若干眉を顰めてから、鞄から端が覗いている台本を指差す。
「もう全部覚えたから、再開いつでも良いって伝えといて」
「―――……」
 わかった、と口にするまでの三秒間の空白に違和感を覚えた健悟は、片眉を上げながら泉に質問を返す。
「なに?」
「……いや、このまえ文句が顔に書いてあったから。もう降りるのかと思ってた」
「……あー……」
 そのつもりだったけど、とは言わず曖昧に誤魔化すと、上から好奇心の塊が落ちてきた。
「何かあったか?」
「まあ、……ちょっと」
「ちょっと、って顔してないけどな」
「…………うるさい」
「、」
 チッと舌打ちをしながら雑誌に視線を戻すと、好奇心を丸出しにした泉は身を乗り出しながら口元を緩める。
「なぁおい、何あったんだよ」
「なんもねぇよ」
「ないはずないだろ、こんな早く来て……何、頭でも打ったか? おまえが挨拶とか初めてだぞ、初めて」
「……っさい、もうおまえにはぜってぇしねえ」
「てめえ、おい」
 マネージャーという立場もないようなもののように冗談で殴りかかろうとする泉、普段よりもどこかむずむずと嬉しげな表情が感情を物語っているようで、健悟はあえて無視を決め込んで雑誌に目を落とした。
「なにおまえ、何飲んでんの?」
「コーヒー」
「そのクソマズそうなやつが?」
「…………」
「匂いからして濃すぎだろ、なんで同じ豆使ってそうなるんだよ」
「……るっせえな……」
 チッと舌打ちをしながら健悟が珈琲を飲むと、泉は仕方ないとでも言うようにコーヒーメーカーへと脚を運んだ。
 たぷたぷに用意されているそれをマグカップへと並々注いで、小気味良い音をさせながら熱いそれを喉へと流し込む。そしてごくりと喉が鳴ったあと、聞こえたのはクッと小さく笑った声。
「……不味いな」
「一生飲むなハゲ」
「ハゲてねえよ、ガキ」
「…………」
 泉が小さく笑ったこと、それが背中の動きだけで伝わった次の瞬間、今度は泉の真横にあった扉がガチャリと震えた。コツンと綺麗なヒールの音が事務所内に響いてから、高そうな毛皮を纏った女性が入って来る。
 ふたつある影に驚いているらしい表情はサングラスの上からも確認できて、わざとらしくサングラスを外した女性がきょろきょろと辺りを見回しては、時計に目をやっていた。
「……時間間違えた?」
 派手な巻き髪は綺麗な金髪そのもの、ミニスカートから伸びる足は細く、冬の寒さにも負けないような強い双眸と派手な化粧がそこにあった。
 夜中の歌舞伎町か六本木にでも存在していそうな造形は早朝の事務所に微塵も馴染まず浮いている。怪訝な表情で現れ、泉へと問い掛けた事務所の社長―――中条 綾菜(なかじょう あやな)に、泉はくっと笑いながら健悟を指差す。
「違いますって、こいつが早いんですよ。俺より早かったんですよ、今日」
「……は?」
 室内の時計を見てからなお自分の腕時計を確認した綾菜を健悟が睨みつけると、次の瞬間にはにやにやと表情を崩した泉が給湯室へと歩いていった。
「ほらこれ、こいつが入れたコーヒー。くっそマズいですけど」
 不慣れなコーヒーメーカーでは抽出方法も分からずすっかり濃くなってしまった珈琲、ミルクを入れてもなお苦いだろうそれを泉はわざとらしく綾菜へと手渡す。
 むずむずとした口元を抑えきれていない泉を健悟が長い脚で蹴り付ければ、黒い水面がゆらりと揺れていた。
「いてっ」
「……だから、一生飲むなハゲ」
 チッと舌打ちをした健悟に戸惑うように綾菜が珈琲に口をつける。ごくんと喉を震わせれば甘苦い味が咥内に広がって、目の前で眉を顰めている少年の様子をただ眺めることしかできない。
「……あんた何あったの?」
「…………なんもねっつの……」
「…………」
 ふいと綾菜から視線を逸らすけれど、拒否如きには負けないとでも言うような強い好奇心の塊が押し寄せてきた。
 普段はそのまま社長室に行って仕事をするはずなのに、珈琲を片手に持った彼女は健悟の隣にどかりと座っては、うるさいくらいの質問を浴びせてくる。
 なにがあったと、学校に行ったのかと、彼女ができたのかと、想像で質問しながらもじろじろと顔の周りを見たり鞄の中の持ち物を確認したり、散々物色してはどこか頬を緩めて健悟を見ているようだった。
 けれどもその視線は決して居心地の悪いものではなく、純粋に何があったのかと心配しているようでもあり、はやく此処から立ち去ってしまいたいような、居心地の良い温度があった。
 たかだか雑誌を見ながら浴びせられる質問を軽く受け流すだけ、それでもこの高い声の主とこんなにも話したことは初めてなのかもしれないと思えるくらいには会話を交わしていることも事実だった。
 別に喋りたくないわけじゃなかった、ただ、何を話して良いか分からなかっただけだ。高々三十分はやく事務所に来ただけ、ぶっきらぼうな挨拶を投げただけ、糞不味い珈琲を入れただけ、たかがそれだけでこんなにも構われることが想定外で、正直今ですらどうしたら良いのかが分からない。
 未だ早い時計を見ては朝ご飯を食べてきたのかと、眠そうな目蓋を見てはきちんと寝たのかと、綾菜から掛けられる言葉が処理できずにぽかんと口を開けてしまうと、ふっと綺麗に笑った綾菜が重い腰を上げて、自分が作ってあげると糞不味い珈琲を入れ直しに向かった。
「あーあー、喜んじゃって」
「…………」
「いきなり懐くからだよ、おまえが」
「……懐くとか、ねぇし」
 チッと舌打ちをしたにもかかわらず上から降ってくる眼差しは柔らかい、少しの変化を覚ったらしい二人がいつも以上に話し掛けてくることが分かって、がりがりと頭を掻くことしかできなかった。
「…………」
 ―――話すことなんて、なんでもよかったのだろうか。
 糞不味い珈琲を嬉しそうに飲んで、心配してくれる、たかがそれだけだとしても、そんな人が身近に居たことが意外すぎて、自分の中に建っていたはずの壁がカタカタと小さく壊れていく音がする。
「…………」
 目を泳がせながら雑誌を見ているふりをすると、開いた扉の向こうから朝に相応しい珈琲の香りが漂ってきた。
 トレイに乗せられた珈琲の数は三つ、何も入っていない黒いそれは正に自分好みのもので、当たり前のように渡されたそれに、そんなことすら知られていたのかとふと思った。珈琲はブラックだって、そんなことすら一度も、話したことはなかったのに。
 ―――言わずとも、見ていてくれていたのだろうか。
「…………」
 本当に少しずつ歩み寄ってくる感覚に健悟がむずむずと口元を震わせたとき、沈み込むソファに軽い体重が落ちてきた。細い身体にどれだけ負担を掛けてきたのかは定かではない、手渡された珈琲はとても温かく、自分でも自覚するくらいに分かりやすく照れ隠しのように呟く。
「……つーか仕事、今日なに。いきなり呼び出しとかビビんだけど」
「あー、一応来てる仕事どれやりたいか聞こうと思ってたんだけど……まあ、そんな急いでないから」
 ゆっくり珈琲でも、と微笑んだ綾菜の傍らで、うそつき、と時計を見ながら泉が呟いた。
「急いでねえならわざわざ呼び出してんじゃねえよ、午後からまた撮影だっつーのに」
「ごめんごめん」
 ふっと笑った綾菜が鞄から煙草を取り出そうとすると、その瞬間泉からクッと笑い声が漏れた。
「心配だったんですよね」
「は?」
 悪気なく言った声に健悟が眉を顰めれば、少しだけ口元を緩めながら泉が言葉を続ける。
「だから、」
「―――泉、珈琲。おかわり」
 けれどもそれを断ち切ったのは他でもない健悟の隣に座る女性で、未だ水面が揺れるマグカップを泉にずいと渡してはえらそうに顎で扉を指し示した。
 煙草を鞄から取り出す気配は消えて、意識を泉に戻しては少しだけ眉を顰めている。
「……社長、それまだ残ってますよ」
「ミルクもっと入れて来て」
「……はいはい」
 呆れたように溜息を吐いたスーツ姿が部屋から消えると少しだけ沈黙が過ぎったけれど、健悟は言葉の奥に眠る真意を探るべく小さく口を開いた。
「……なんすか」
 心配て、とは続けなくとも主語は伝わっていて、いまさら、と思うと同時に、そうではないと、自分が何も聞こうとしなかっただけでもあると、心当たりに心臓を痛める。
「……まあ、こんなんでも一応、あんた預かってる身だし」
「…………」
 だれから、とは聞かなくとも静かな会話から意図は伝わって、数年前から意識の外に居た二人を思い出す。
 自分とは関係のない人物、そう思い込んできた人、だ。




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あきゅろす。
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