28
「……ドエムかっつの」
声を震わせ笑んだところで、一緒に笑ってくれる声はない。たかが嗅覚を働かせただけで、勝手に涙が落ちる日が来るとは思わなかった。
――元から健悟なんて居なかったんじゃね?
そう思えれば楽だとすら思う。それほどまでに、馬鹿馬鹿しい考えが蠢いていく。
「ばぁーか……」
何度も言って、何度も言われた言葉を呟きながら、もう一回香水を押してみる。
感じているのはたかが匂いだけの筈なのに、頭の中に浮んでくるのはたった一人が柔らかく微笑む顔だったり、いじける顔だったり、展望台で情けなく俯いていた情景だったり。信じられないほどに様々な姿が頭を過ぎって行く。
想い出とも言えないような、なんてことはない、たかが数日間の出来事だというのに、何故こんなにも既に懐かしいと思ってしまうんだろうか。
過ぎ行く時間が貴重だと意識したのは、たった数日間。殆どが怠惰で笑っていた日々だ、それを思い出しただけで余計に泣けるなんて、自己陶酔にも程がある。
馬鹿みたいだ、と思っているのに、勝手に出てくる邪魔な液体。原因はなんだと探れども、ありすぎて追求しきれないというのが本音だった。
「あーもう、クソッ、大分良いと思ったのによー」
武人家で過ごした四日間、健悟の事を考えないように考えないようにして、漸く落ち着いてきた筈なのに。それなのに、いますぐにハンガーに掛かっているスーツをぐちゃぐちゃにして、掻き抱いてしまいたいと思う位には、感情なんてものは簡単には消えないらしい。
考えないと思っていること事態がつまり考えているのだと、尤もな意見から目を背けていた筈なのに、たかがこんな匂い如きで泣かされた日には、情けないながらも認める事しかできない。
まだ、逢えない、と。
もっとちゃんとこんな気持ちを消して、利佳との仲を応援できるまですっぱり無くして、笑って東京行きを見送れるようになれるまで。それが今出来ること、いちばんしなくてはいけないことだ。
なんとか健悟が帰るその日までにひょっこり現れて、馬鹿みたいに軽口叩いて見送りたい。
また来いよって、根拠のない約束をして、笑って見送りたい。
けど、それにはまだ時間が足りないらしい。
「たかが四日だしなぁ……だっめだなー。……帰っかぁ、やっぱ」
ずび、と鼻を啜れば予想外に鼻水が溜まっていて、「うっそー」と自分で笑ってしまった。
帰る場所が隣の家に変わっていることには複雑な気持ちだけれど、きっと、何処で寝ても変わらない気はしていた。
遠慮のない幼馴染に罵倒されながら眠っていても、見たくない夢が勝手に創造されて、起きることを拒否して再び飛び立ちたくなる。都合の良い夢が楽だと思えたのは、いっそ夢の方に住みついてしまいたいなどと馬鹿な現実逃避を心から願ったのは、十七年間生きていて初めてのことだった。
こんなにも健悟の痕跡が残る部屋に、浅はかな思慮で帰るべきではなかったと蓮が部屋に背を向けた、――そのとき。
「――……!」
音がした。先程マナーモードを解除した携帯から、健悟の歌声が聴こえた。何度もかかってきた電話なのに、音が乗るのは久しぶりのことだった。
四日ぶりの声音に、歩みさえ止まってしまう。それもそのはずで、電話から流れる低く伸びの良い声に耳を傾けると、再び酷く懐かしい気持ちが蘇ってしまったからだ。
そうだ、確かに彼は、こんな声だった。
こんな声で、利佳に――、
「……っ、」
浮かぶ邪念を振り払い、再び携帯電話に目を向ける。
狭い部屋に響く元凶にはしっかりとハートマークが浮んでいて、いい加減表示を変えなければと的外れなことを思った。
爪が白くなって、手首が震えるほどに力を入れているのに、最後の電源ボタンをどうしても押すことができない。
耳に痛い着信音。大嫌いな、うるさい環境。
それでも、電話が掛かってくるうちは、と安心してる自分が居ることはやはり否めない。健悟が東京に戻れば、きっと二度と表示されることは無いであろうこのマーク、健悟がこっちに居る時でさえ、表示され続けるかは分からない不釣合いなハートマーク。それでも、いまこうして電話があるうちは、まだ、見放されていないと思えることが、酷く胸中を楽にしてくれた。
この部屋でこの曲を聴くということ自体、どくどくと揺れる心臓を一気に鷲掴みにされるような強い攻撃力を持っていたけれど、それ以上に、安心してしまう。何日も会ってない健悟だけれど、ちゃんと居たって、思える。
(……なんつー、自分勝手な)
最悪だな、と薄く自嘲の笑みを漏らす。自分が此処まで意固地の無い人間だなんて、知らなかった。
だって、スキナヤツなんて、そんなの。良いなって軽い気持ちで付き合って、いつか本気で好きになれると信じてた。でもなんでかいつも駄目で、適当に別れて、面倒臭くなければそれでいいと、そう思って関係を育んできたというのに。いつかそのうち、自然と好きになる人ができるって、そう思ってたのに。
そのいつかが今だなんて、そんなこと信じらんない。スキナヤツができるって、もっと嬉しいもんなんじゃねえの。羽生みたいに、毎日楽しそうで、笑って過ごせるもんなんじゃねーの。なんだよ、これ。しらねえうちに涙出るし、家にも帰って来れねえし、けんごにもあいたくねぇ。最悪じゃん。
こんなに、めんどくさいもんなんかよ。
こんなに自分が嫌いになって、わけ分かんなくくらいなら、こんなの……。
「……」
薄い膜の滲む双眸で、もう一度決死の思いで電源ボタンに指を重ねた、その瞬間――。
「――いいかげんにしなよ。」
突然廊下から、ドン、と扉を叩かれて、厚さ三センチの壁が振動を見せた。
「、!」
ひゅっと息を飲めば驚きに声を出すことすら出来なかった。
だって、慣れた暴挙は利佳じゃない。声が違う。女ではない、男の声だ。
……帰って来ないと言っていた、張本人の声がする。
電話から響く声と、全く同じ音がする。
やばい、と着信画面を待ち受け画面に戻すけれど時既に遅し、きっと此処に蓮が居ると確信している健悟が再度扉を揺らして、狭い室内に響く轟音は出て来いと言われているようだった。
「……さいっあく……」
今日は帰らないと嘘を吐いた姉に怨みを募らせれども、この場の空気が一変するわけでもなんでもない。
蓮が下唇を噛みながらその声を無視していると、再び、まるで扉が折れそうなまでの轟音が木霊した。殴っても出ないようなこの音は、健悟が脚で蹴りつけているのだろう。もしかしたら、本当に蹴破るつもりなのかもしれない。
「おいって」
「……、」
また一回。扉が強く叩かれた。
ねぇ、と優しく掛けられる言葉は無い。そのことに心臓がぎゅっと鷲掴みにされたように跳ねてから、再び目元がじんわりと熱くなる。
扉越しでも分かるような温度の低いそれは、初めて健悟を怒らせたときを思い出させたからだ。そういえばあの時の健悟は、利佳と結婚するなんてそんなこと言うなと怒っていたはずなのに。余程嫌だと思われたそれは所詮は自分の勘違いで、軽々しく言うなと、そういう意味合いが込められていたのだろうか。あんな告白現場を目の当たりにした此方からしてみれば、その方が当たっている気がする。
「聞いてんの?」
「っ、」
低い声に、はっと顔を上げた。どこか他人事のような気がしていたけれど、これは現実なんだ。
扉一枚挟んだ場所に、健悟が居る。うだうだ考えている暇なんてない。
会わない、会えない、会いたくない。
結局忘れることなんか出来なくて、耳を塞いでも声は離れなくて、携帯を持つ手に余計に力が入ったけれど、足を前に進ませることは出来なかった。
所詮は二階建てなのだから、頑張れば屋根を伝って窓から降りられないこともない。そのまま武人の家に行けば良い。
咄嗟にそう考えた蓮はそのまま後ろを振り返り、窓の鍵に手を伸ばす。そしてその勢いで窓枠に手を掛けた、が――。
――ガチャン。
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