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 窓に手を掛けていた蓮は、後方で開錠された鍵の音を聞き、ビクリと身体を揺らした後に動きを止めた。
 振り返れば横向きにしっかりと掛けられていた鍵の方向がすっかり変わっていて、廊下からの光がゆっくりと一本線を射している。 
「…………」
「なっ、」
「……持ってんだよほんとは、鍵くらい」
 奥から出てきたのは先程まで怒りを灯していた張本人、健悟が鍵を蓮に見せびらかすようにしながら無遠慮に部屋へと侵入して来ている。
 久しぶりに見る健悟は相変わらずの風貌で強いオーラを身に纏っているものの、いつもの笑みはなく、真っ先に疑心を浮かびだしているようだった。
「蓮が開けてくれるかどうか、見てた」
「……さいっあく。不法侵入だろ、それ……」
 窓から出る事を諦めた蓮がそう言って健悟に向き直ると、予想外にふっと鼻で笑われてしまった。
 たかがそれだけのことで、信じられないほどに大きく脈を打つ。心臓から、脚の爪先から、指先から、全身で血流が蠢いていることが分かった。どくどくどくどく、うるさい心臓の音はこの状況の所為なのか、目の前に居る男の所為なのか。
「不法侵入って。前にも言ってたね、それ」
「、は?」
「まあ、あんときみてぇに鍵あいてなかったし、マジで不法だけど」
「……」
 自虐的に笑う健悟に微塵の心当たりもなく、なんのことだと眉間に皺を寄せながら過去を振り返ることしかできない。
 そして健悟の持っている鍵を見て、漸く辿り付いた地点があった。蓮が初めて撮影場所を認識したあの日、帰った途端健悟が居間に居たときのことだろうか。確かに酷く驚いた記憶がある。不法侵入だと、訝しみながら告げた記憶は、うっすらとだが残っている。
 ――だから、いちいち……なんで憶えてんだよ、んな、くだらねぇことばっか。言われて思い出したっつーの。
 心中で意味わかんねぇと精一杯の悪態をついても、僅かな隙間でこれ以上ないほどに歓喜の声をあげる自分が居る。
 たかがこんなことで泣きそうになるなんて、おかしい。視界がぼやけるなんて、おかしいにも程がある。なんでこんなに泣きそうなんだ。お互いがお互いに一線を引いているような態度が嫌だから、くだらねぇことでも憶えててくれたことがうれしいから、――健悟が、目の前に居るから。
 どの事象に目頭が反応したのかは分からないけれど、今この状況が可笑しいことだけは分かる。
 だめだって。泣いてもなんもなんねぇし泣く意味がわかんねぇし、泣くとかおかしいだろ、ああもう、つーかまず電話に出ないことからおかしかったのか。形だけでも出とけば今のこの気まずい空気もなかったかもしれないのに。おっかしいなぁ、おかしい。
 ……でも、なにがおかしいって、あれだろ、――……健悟の様子が、一番可笑しいだろ。
「…………」
「…………」
 似合わない横暴な態度は、こんなにも無視を続ける自分のせいだとは分かっている。いつもと違う表情でも、それでも、たった数日なのに酷く久しぶりに見た気がしていた。
 静かな沈黙が落ちる部屋で、健悟に悟られないように横目で見れば、うっすら目の隈が浮かんでいることが分かった。
 疲れているのだろうか、寝ていないのだろうか。欠点一つ無い顔に唯一見つけた悪点を心配し、少しだけむくんだ顔を見ているうちに、嫌でも「すきだ」と呟いた唇に目がいってしまう。
 思い出したくもない一連の流れを思い出して、胸の奥底から湧き出る穢い感情に支配される。
 なんで利佳のものなんだろう、なんでおれのものになんないんだろうと、在りもしない仮定からだ。
 背中も指も肩も唇も、触れ合うまでに近くにあった距離だったのに、今では部屋の扉と窓の距離。
 離れようと思ったのは自分だったのに、健悟を目の前にしたらやっぱりあっさり崩れそうになる。泣き喚いて押し倒して、泣きながら喚けば許容してくれないかな、なんて絶対にやりもしない仮定にまで思考が及んでしまった。
「……、れんさ、」
「……なに」
 脳内で考えているだけでは悟られるはずもなく、考えたことすべてを捨てるかの如く蓮は小さな声で返事をした。
 すると健悟はもっていた鍵を蓮に見せつけ、何かを決意しているかのような、まるで凄むかのような揺るがぬ視線を送ってくる。
「なんで俺が、あのとき鍵を開けなかったか分かる?」
「…………」
「あのときってあれね、蓮がキレーに俺を無視して二階にあがってったとき」
「…………」
 ふっと自嘲を含む笑みを投げられ、細まった目元は思わず後ずさりしてしまいそうなほどに不気味なものだった。
「わかんない? あの時は、本当に蓮が具合悪そうだと思ったからだよ。寝かせた方がいいと思ったから、心配だけど入んなかった」
「……」
 クッションを投げ付けて拒否を示したあの日。
 完全なる八つ当たりを思い出せば罪悪感が募り、無言を貫いていると、数メートル離れた場所からでも鮮明に重い溜息が聞こえた。
「……でも俺が間違ってた。その後全然帰って来ないし。――すっげぇ後悔した」
 ぺた、ぺた、ぺた。裸足でフローリングを歩く音がする。
 ぴたり。目前五十センチほどの場所で歩みを止めた健悟を見上げると、訝しむような冷ややかな視線が降ってくる。

 ――同じだ。やっぱり、あのときと。






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